リンゴ スター ドラム。 2.1.4

リンゴ・スターが加わってビートルズ=Fab Four(ファブ・フォー)の歴史が始まった日|TAP the DAY|TAP the POP

リンゴ スター ドラム

意外な有名人たちからの質問も含まれており、またリンゴ独特のドラミングの秘密や「Octopus's Garden」の誕生秘話も駆られていて興味深い。 の中でもお気に入りの時代はいつ?あと、のレコードの中でお気に入りのドラム・は?(ジェフ・リンからの質問) いいはたくさんありすぎるよ!ジェフにとっては、「」がいつも衝撃のあるの一つだと思う。 僕には独特のスタイルがある。 右利き用のドラムを左利きでたたくからだ。 そのためにのやり方が変わったものになるんだ。 僕はスネア、、フロアタム、という順番で叩くことができない。 フロアタム、、スネア、の順番でしか叩けない。 左手を先に出すからなんだ。 だからは得意だよ。 いつも「正しいところ」にを入れる。 つまり、ヴォーカルが歌っているところで叩くようなことは決してしないんだ。 初期のころ、まだ練習していたころは、マイクはほとんどなかった。 そこでオープンを使うようになった。 他に誰がやっていたことか知らなかったが、「シュシャシュシャシュシャ」って音がたくさん出せる。 いつも好んでやっていた。 初期のころのレコードを聴くと、よく(オープンが)出てくる。 しかし「A Day in the Life」なんかは、僕はあの歌全体が大好きだ。 ポールの演奏もジョンのもいい。 そしてジョージのギターは、時にはどんな歌詞よりも重要だったりする。 素晴らしいソロギターだよ。 どれが僕のお気に入りか、ジェフにうまく言えないよ、たくさんありすぎるからね。 をやっている限り、全部が僕のお気に入りだね。 1967年ごろからあなたのドラミング・スタイルが大きく変わっています。 とくに「I Am The Walrus」や「Flying」ではあまりを使っていません。 あれはどこから来たのですか?(からの質問) 曲がどんどん変わり、僕たちのやり方も変わり、満足感を覚える対象も変わっていった。 それらのものがすべて演奏に現れていったのだと思う。 自然な流れだったんだ。 「この方向に進んでいこう。 こうやらせてくれ」ってね。 自信のようなものだったと思う。 人生ではある種のことが起こるものだ。 彼の言っていることは間違いない。 僕のドラミング方法は変わっていった。 唯一変わらなかったのはタイムキーピングだけだ。 それから、4トラックしかなかった60年代前半に比べるとドラムスが良く聞こえてきただろう。 たとえばドラムスの部分、ヴォーカルの部分、タンバリンの部分、と言う感じでね。 もし何か消えてしまうものがあったとしたら、それはだった。 僕はリマスター盤が大好きだよ、僕のプレイが聞こえるからね! あなたのドラムプレイはユニークで大好きです。 きっとあなたの直感によるところが大きいと思うけど、あなたに影響を与えたドラマー、あなたが追いつこうと目指したドラマーは誰ですか?(マリアンヌ・フェイスフルからの質問) いいや、いないね。 レコードを聴くときは全体を聴く。 「お、これはだな」なんて言ったことはない。 僕にはドラムのヒーローというのはいなかった。 映画館に行ってン・クルーパが演奏しているのを見て、なるほどと思う。 僕は自分自身のスタイルを見つけ出した。 興味深いことに、僕が演奏を始めたころには、楽器を持っていればバンドには入れたんだ。 上手い必要はなかった。 僕たちはみんなで演奏を覚えていった。 だから僕には尊敬するヒーローのようなドラマーはいないんだよ。 アルバム『Postcards From Paradise』に「Rory And The Hurricanes」という曲が入っていています。 1950年代後半にバトリンズで行われたロリー・ストーム・アンド・ズとのセッションでの思い出はありますか? (訳注:「バトリンズ(Butlins)」とは英にあるホリデー施設のこと。 質問では「1950年代後半」となっているが、リンゴがロリー・ストームらとバトリンズでライヴをしたのは1960年7月) 毎週、見に来る観客が違ったんだ。 の子がたくさんいたよ!とても素晴らし時間だった。 あのとき僕たちはいわゆる「プロフェッショナル」になることができて、僕は工場をやめることにした。 バトリンズでは3か月間にわたってギグをやり続けた。 こんなことはそれまでなかったんだ。 ときどき午後のセッションもあった。 ホリデーの雰囲気の中だったから、みんな楽しもうとしていた。 とても楽しい時間だったよ。 レパートリーは僕たちがで演奏していたものと同じだった。 1961年、62年のでは、どのバンドも全く同じレパートリーをやっていた。 僕はロリーといっしょに演奏するために、別の2つのバンドといっしょに会場に行ったんだ。 しかし、たまたまその2つのバンドのドラマーが両方とも現れなかった。 だから僕がドラムキットに座って、全部で6セッションをやり通したよ。 自分のバンドで30分、次のバンドで30分、さらに次のバンドで30分。 そしてロリーの元に戻る。 僕は彼らのやる曲も知っていたから、結局みんなと演奏したんだ。 映画『The Magic Christian』でのあなたの演技は素晴らしかったです。 といっしょに仕事をするのはどんな感じでしたか? ピーターと一緒に仕事をするのは素晴らしかった。 いっしょに楽しいディナーにも行ったことがある。 彼は独自のスタイルで、とてもユーモラスな人なんだ。 僕たちは友達だったんだよ。 1967年、を離れてから、僕はに遊びに行った。 でもピーターは忙しかったので僕にボートを貸してくれた。 僕とモーリーン、そして当時は子供は2人だけだった。 みんなでボードに乗って出かけたんだ。 あれは素晴らしい時間だった。 ボートの船長と話をしていたら、彼が「オクトパス&チップス」をくれたんだ。 何だか分からなかったよ、僕たちは「フィッシュ&チップス」には親しみがあったけどね。 彼は海底にいるタコの話をしてくれた。 タコは光る石やブリキの缶を探しに出かけて集め、そういう輝くものを使って自分たちのための庭を造る、っていう話だった。 それはどんなに美しいだろう、って思ったよ。 )」って考えていたんだ。 曲なんでどこから来るか分からないものだろう? 1970年のアルバム『Plastic Ono Band』のセッションについて覚えていることはありますか? あれは素晴らしかったよ。 ジョン、クラウス(・フォアマン)、そして僕。 今まで聞いた中で最もイケてるトリオのひとつだった。 のようなことをやった。 ジョンが曲を作っていることを知っていたから、それを演奏して、どんなふうに仕上げるかやってみたんだ。 僕たちはもともとクラウスを知っていたしね。 ジョンと僕もお互いよく知っていた。 だからその場の雰囲気が乗ってくると、僕たちは目に見えないものに動かされるようだった。 いままでレコーディングに参加した経験の中で、最高のもののひとつだったよ。 ジョンと一緒に部屋にいて、彼が率直に、叫んだり、声を張り上げたり、歌ったりするのを聞くだけで、それはすごい時間だったんだ。 映画『200 Motels』でと共演したときの思い出は? 初日から素晴らしかった。 オフィスから連絡が来て「があなたに話をしたいって言ってます」という。 僕は「うちに来るようにフランクに伝えてくれ」って言ったんだ。 すると彼がやってきて、少なくとも25ページはある楽譜を広げて見せるんだ。 「フランク、君は何のためにこんなものを僕に見せているんだい?僕は楽譜が読めないんだよ」って言ったら、「とにかく見せたかったんだ」という。 そして「映画の中で演奏してもらえるかな?」と聞いてきた。 それは簡単なことだし、彼はいい奴だから「もちろん」て答えた。 フランクは大好きだったからね。 彼とはすでに何度か会ったことがあった。 彼は素晴らしい人物だ。 僕が関わる限り、彼の音楽はクレイなものだった。 でもそれは僕個人の意見だ。 映画の思い出といえば、彼はバンドメンバーを追いかけ、彼らの会話をこっそり録音し、それを歌にかえてバンドに歌わせる、っていうものだった。 彼は本当に楽しい奴だったよ! はを「あの4人」と呼んでいます。 他のバンドにつけるいいあだ名はありますか? 「畜生ども」。 これがどのバンドを指すか自分で考えてくれ! 僕とやの間で競争があっただろうか?ない、決してなかった。 それにとの間にも決して競争なんかなかったんだ。 あれは新聞紙上の話で、主にアンドリュー・ルーグ・があの手の話を広めてを悪ガキとして売り込もうとしたんだよ。 あなたが自分でアカウントを運営しているのはステキなことですね。 ファンの人たちに身近な存在であることは好きですか?あなたが若かったころ、ファンに対してどう接するべきかについてブライアン・エプスタインから言われたことが、どれくらい影響を与えているのでしょうか? あれはその当時のやり方だったんだ。 僕の家族はみんなファンレターの返事を手伝ってくれた。 僕の母はよく「これにサインしてあげなさい」っていっていたよ。 過去ずっと、どんなものにもサインしてきた。 でもみんなとっておかないで売ってしまうんだよ。 ニューヨークではピックガードにサインしたら、それを汚いギターにくっつけてeBayに3,000ドルで売り出した人もいた。 だから2010年にサインするのはやめにしたんだ。 前回でオールスター・バンドとライヴをやったとき、おかしなことがあった。 コンサートの後、会場の外で車に乗るために出てきたときにある人が「おお、リンゴ、俺はリンゴのファンなんだ。 大好きだよ。 僕も出身なんだ。 これにサインしてくれ!」って言ってきた。 彼は僕のファンなんじゃない、単に何か売るものを欲しかっただけなんだ。 musique2013.

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リンゴスターってドラム下手ですよね。

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ドラムを演奏するザック・スターキー(2005年) 基本情報 出生名 Zak Richard Starkey 生誕 1965-09-13 (54歳) , ジャンル 職業 、 担当楽器 、、ギター 活動期間 - 共同作業者 、, , , , , , and his All-Starr Band, ザック・リチャード・スターキー(Zak Richard Starkey、 - )はの。 の元メンバー、と元妻との間の長男。 やのサポート・メンバーとして知られる。 弟のジェイソンと妹のリーがいる。 娘のターシャ・スターキーはベーシストとして活動している。 父リンゴは「ドラムは人から教わるものじゃない」という考えだったため、リンゴを慕っていたのからを教わることになる。 そのためか、プレイスタイルはキースのようなパワフルなものとなっている。 現在はにサポートメンバーという形で招かれ、かつてキースが座っていた場所でドラマーを務めている。 主な活動 [ ]• 8歳の時、「キースおじさん」として慕っていたに最初のドラムセットを買ってもらう。 また、ドラムも彼から習う。 1984年、(元)等とナイトフライを結成するが、レコード発表には至らず。 1980年代中期から、本格的にプロのセッション・ドラマーとして活動。 1985年には父リンゴと共に「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」の曲「」のレコーディングに参加。 その後は()等、多くのミュージシャンと共演する。 1990年代前半には、父リンゴ率いる、の正式メンバーとしても活躍、には来日も果たす。 の作品『』の収録曲「Anytime Woman」と「銀のネックレス」に参加。 にてレコーディングされた。 には、のツアーをサポート。 6月のハイドパークで行われたイベント(プリンストラスト)よりザ・フーのサポート・メンバーとなる。 元の、と出会い、を結成。 最初は6人編成で、に出演のために来日するが、その後トリオ編成になり、、アルバム『ブームスラング(BOOMSLANG)』を発表。 同年3月に来日し、東名阪で3公演行った。 、出演のために、ザ・フー念願の初来日。 ザックの、キース・ムーンを思わせるドラム・プレイが絶賛される。 ザ・フーの来日公演の少し前から、にも誘われ、2004年のライヴからサポートメンバーとして加入。 発表のアルバム『(Don't Believe the Truth)』に、ほぼ全面参加。 ツアーにも同行。 オアシスのツアーで忙しかったため、ザ・フーの発表のアルバム『(Endless Wire)』では、1曲しか叩いていない。 しかし、ザ・フーの2006年のツアーには参加。 秋から年末にかけて行われたオアシスのアコースティック・ライヴには、の友人であるテリー・カークブライドが参加したため、ザックは帯同していないが、2月には、でのオアシスのステージにアルバム発売時のツアー同様参加。 結果的にこれがオアシスのメンバーとして最後のライブ演奏となった。 発表のオアシスのアルバム『 Dig Out Your Soul 』のレコーディングに参加。 だが、2008年5月、『ザックはこの先、オアシスのレコーディングにもツアーにも参加することはないだろう』と報じられ、その後正式にサポートメンバーから脱退。 関係者は「ノエルと意見の対立があった」と話しているが、オアシスのメンバーは「ザックはザ・フーに専念したかっただけ」と語っており、対立を否定している。 ザックの後任はが務めた。 におけるザ・フーの演奏にドラムとして参加。 出典 [ ].

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リンゴが愛用した主なドラムセット「ラディック(LUDWIG)」

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1962年8月18日、マージー川をはさんでリヴァプールの対岸にあるバーケンヘッドの町で、地元園芸協会の17周年を記念するダンスパーティーがあった。 その夜の10時からハルム・ホールのステージに立ったのは、この日からリンゴ・スターを正式メンバーに加えたザ・ビートルズだった。 しかし船乗りであった父親は船乗りで家庭をほとんど顧みず、母親も育児放棄で姉夫婦に息子を預けて一人で暮らした。 子供の頃から孤独だったジョンは、1956年にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて、ロックンロールに目覚めている。 そしてギターを手に入れると、ザ・クォリーメンというスキッフル・バンドを結成した。 スキッフルはギターを中心に、ドラム代わりの段ボール箱、パーカッション代わりの洗濯板など、ありあわせの楽器を演奏して歌う音楽である。 誰にでも演奏できる手軽さが受けて、イギリスでは若者たちの間で人気を集めていた。 その頃にジョンは母親のジュリアが近くに住んでいることを知って仲良くなったが、ジュリアは2年後に家の前で自動車に轢かれて死亡してしまう。 〈参照コラム〉 ポール・マッカートニーはバンドマンとして活躍したこともある父と、看護師であった母との間に生まれている。 乳ガンに罹った母が急に亡くなったのはポールが14歳のときだった。 母の死による悲しみをまぎらわすためギターに熱中したポールは、ラジオから流れてくるアメリカのロックンロールを聴いて、それをカヴァーするのに夢中になった。 友人からクォリーメンの出演するパーティに誘われたポールは、ジョンと出会ってバンドのメンバーに加わることになった。 ともに思春期に母を失くしたジョンとポールは、一緒にギターを奏でながら歌うことで、無意識のうちに生きている証を確かめていたのかもしれない。 だから彼らの歌声と演奏は自然と弾けるものになり、強い生命力を放つようになっていった。 ポールの相棒的な存在だったジョージ・ハリソンをギタリストに加えて、クォリーメンは1958年からリヴァプールのクラブなどで活動し始めた。 クォリーメンはバンド・メンバーの離合集散を経て、ベースにステュアート・サトクリフが参加してシルヴァー・ビートルズと名乗り、1960年にヨーロッパ最大の歓楽街があるドイツのハンブルクに遠征した。 それはクラブと長期契約して一日十時間にもおよぶステージを、連日連夜こなすきつい仕事だったが、そこで夜ごとに鍛えられたおかげで、バンドとしての演奏力と持久力を高めていった。 ハンブルクにおけるさまざまな出会いは、彼らを表現者として成長させていく。 ジョン・レノンが 「俺たちを育ててくれたのはリヴァプールじゃなくて、ハンブルグなんだ」というように、ハンブルクは単に無名時代の活動の場ではなく、ビートルズが名実ともに誕生した場所となった。 彼らのトレードマークとなる「モップ・トップ」と呼ばれるヘアスタイルは、カメラマンの友人のアイディアだった。 後にドラムを担当するリンゴ・スターと対バンになり、セッションを行ったりもしている。 最初の遠征でハンブルクに残る道を選んだサトクリフがバンドを辞めたので、リヴァプールに戻った後はポールがベースを担当することになる。 そしてドラムにピート・ベストが加入、4人構成となったビートルズは1961年には再びハンブルクに行き、さらに鍛えられてバンドとしての表現力も磨いていった。 1962年の春にも3度目の遠征で「スタークラブ(Star Club)」に出演し、残るは自作曲でのレコード・デビューだけとなったところで、EMIのパーロフォン・レーベルからデビューすることが決まった。 だが6月6日に行われたデモテープ録りの後で、プロデューサーのマーティンはドラムのピート・ベストの技量について、マネージャーのブライアンに危惧していると伝えた。 そのことをきっかけにビートルズの3人とブライアンは、ピートを外して新しいドラマーを迎え入れることを決める。 白羽の矢が立ったのはリヴァプールのバンド仲間、リンゴ・スターだった。 ジョンと同じ1940年生まれのリンゴは、リヴァプールでも最も貧しい地区で生まれ育った。 幼い頃に両親が離婚したので母と継父に育てられたが、幼い頃から体が弱くて入院生活が長かったことから小学校にもほとんど通えなかった。 しかし継父にドラムセットを買い与えられたことで世界が開けて、先天的な才能を発揮してリヴァプールではトップの腕前になった。 その年の2月に体調が悪くてピートがステージに立てなかった時、ジョンはリンゴに連絡を入れて代役でドラムを叩いてもらっている。 その時にセッションした経験からビートルズの3人は全員、リンゴが加わることでバンドに表現の可能性が大きく広がると考えたのだった。 これでFab Four(ファブ・フォー)、素晴らしい4人が揃うことになり、そこから新しい音楽の歴史が始まったのである。 それから1年後の8月3日に行われたリヴァプールのキャバーン・クラブでの演奏を見れば、この4人でしか出せない魅力が放射されているのが伝わってくる。

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