山背大兄王 系図。 聖徳太子

中大兄皇子とは?中臣鎌足や蘇我氏との関係や大化の改新についても

山背大兄王 系図

聖徳太子 概説 名前 本名 厩戸(うまやど) 別名 豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう) 古事記での呼称 上宮之厩戸豊聡耳命 日本書紀での呼称 厩戸皇子、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王 名前の変遷 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立したと言われる。 生没年 574年(敏達3年)-622年(推古30年) (621年説あり-『日本書紀』) 摂政 593年から摂政として政治に携わる。 墓所 叡福寺北古墳(大阪府南河内郡太子町太子2146) 叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓(磯長陵)に指定されている。 聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。 古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。 中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。 橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 585年(用明元年) 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。 この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。 587年(用明2年) 用明天皇崩御。 皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺。 諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。 厩戸皇子もこの軍に加わった。 討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。 討伐軍は三度撃退された。 これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。 軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。 しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。 592年(崇峻5年) 馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。 その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。 593年(推古元年) 厩戸皇子は皇太子となり、、また摂政として、馬子と共に天皇を補佐した。 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。 594年(推古2年) 仏教興隆の詔を発した。 595年(推古3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。 596年(法興6年・推古4年) 伊予湯岡訪問 600年(推古8年) 新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。 601年(推古9年) 斑鳩宮を造営した。 602年(推古10年) 再び新羅征討の軍を起こした。 同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。 後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。 この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。 603年(推古11年) 冠位十二階を定めた。 氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。 604年(推古12年) 十七条憲法を制定した。 豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調した。 (後世の偽作説もある) 605年(推古13年) 斑鳩宮へ移り住んだ。 607年(推古15年) 法隆寺(斑鳩寺)創建。 同年小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。 翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。 615年(推古23年) 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、615年までに三経義疏を著した。 620年(推古28年) 厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。 622年(推古30年) 斑鳩宮で厩戸皇子が倒れた。 厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没した。 49歳。 その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 聖徳太子に関連する人物 蘇我氏の関連人物 蘇我稲目 蘇我馬子 蘇我小姉君 蘇我堅塩姫 蘇我蝦夷 蘇我倉麻呂 刀自古郎女 河上姫 法堤郎女 穴穂部皇子 蘇我入鹿 詳細は、 「蘇我氏」へ その他の関連人物 東漢駒 僧慧慈 秦河勝 裴世清 小野妹子 詳細は、へ 聖徳太子に関連する文献 概要 聖徳太子については、『日本書紀(巻22推古紀)』、「十七条憲法」、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。 )」、「法起寺塔露盤銘」、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。 これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。 成立年代も不明であまり世のなかに広まった様子はない。 写本の所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が末尾に記されている事から、成立年代が12世紀以前である事が確実ではある。 近代史学の発展に伴い、官製の『古事記』や『日本書紀』などの文献批判が行われ、 記紀以前の古い史料が基礎になっていると思料される本書が、信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。 構成 第一部 厩戸豊聰耳聖徳法王の系図を文章で表現している。 特に妻や女子の名も記しているところが後の父子のみの系図と異なる。 第二部 厩戸豊聰耳聖徳法王の事績。 仏教的事績のほかに冠位十二階について詳述。 第三部 法隆寺の御物の銘文を収めている。 特に天寿国曼荼羅繻帳の銘文は現物が断片的にしか残存してないのでその記録は貴重である。 第四部 断片的な歴史の記録が箇条書き的に記録されており、十七条憲法や蘇我入鹿事件の年代あるいは、「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」に百済の聖王からの仏教公伝、山代大兄(山背大兄王)事件等が記されている。 第五部 欽明天皇(志帰島天皇治天下卅一年(辛卯年四月崩陵桧前坂合岡也)」)から推古天皇の治世年数とそれぞれの崩御年そして陵の所在地を書いている。 ここでは、欽明天皇の治世年数(辛卯年より卅一年(31年)前)から逆算した即位年が『日本書紀』(宣化天皇4年に即位)と相違し、学者の論争の的となっている。 安閑・宣化両天皇のあとの宣化天皇4年(539年)に即位したとする『日本書紀』とは整合しない。 南北朝のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説などがある。 上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ) 概要 7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。 やよりも成立が古い。 鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文を残すのみである(『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』所引の「或書」も上宮記と見なす説がある)。 特に『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、『古事記』・『日本書紀』の欠を補う史料として研究上の価値が高い(この系譜は「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で引用されているので、厳密に言えば、『上宮記』が当時存在した別系統の某記に拠った史料である。 つまり、某記の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる)。 構成等 編者は不詳。 上・中・下の3巻から成る。 書名の「上宮」は厩戸皇子が幼少・青年期を過ごした宮であるが(現奈良県桜井市)、『平氏伝雑勘文』に「太子御作」としているのは仮託であろう。 本書の性格についても、聖徳太子の伝記とする説、上宮王家に伝来した史書とする説などがあって一定しない。 神代の記述も存在したらしいが、まとまった逸文は継体天皇・聖徳太子関連の系譜で占められ、その系譜様式や用字法の検討から、本書の成立は藤原宮跡出土の木簡より古いこと、 さらに推古天皇の時代まで遡る可能性も指摘されている。 播磨国風土記 播磨国風土記(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」について以下の記述あり。 「原の南に作石あり。 形、屋の如し。 長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。 名號を大石といふ。 傳へていへらく、 聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」 「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と考えられることから、『日本書紀』(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。 大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の諡号を聖徳王としたとある。 隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國 隋書に記述された俀王多利思北孤による「 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている。 聖徳太子自信の著作とされる文献 三経義疏(さんぎょうぎしょ) 聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝615年)、『勝鬘経義疏』(伝611年)、『維摩経義疏』(伝613年)の総称である。 それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。 法華義疏は伝承によれば615年に作られた日本最古の書物となる。 聖徳太子自筆の草稿本と考えられているが、異説もある。 『三経義疏』はいずれもこれら6世紀前半ごろの中国の書物と相並ぶものとなる。 先行するものはそれまで日本にはなく、この後にこの種の書が日本で著されるまでに長い空白があるのは不自然であるという指摘は、古くからあった。 これについて、以下のように諸説はあるが決着を見ていない。 1:中国の書が600年ないし607年の隋との交流から日本にもたらされ、これらを参考に聖徳太子が著作した。 2:そのころ朝鮮半島から来日した僧が聖徳太子の下で著作した。 3:そのころ中国から入手した書の中から聖徳太子が選び出した。 4:753年までのいずれの時代かに中国から渡来した輸入品である。 四天王寺縁起 聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。 十七条憲法 日本書紀(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。 上宮聖徳法王帝説には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。 天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記 『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。 序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。 未来記 特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。 聖徳太子に関する諸説 聖徳太子にまつわる伝説 概説 聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記・日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。 また、各地に聖徳太子が建てたという寺院が多いが、後世になって縁起で創作されたものが多いと思われる。 平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。 豊聡耳 ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。 我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。 この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。 しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。 『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。 なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。 兼知未然 『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。 この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。 『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。 また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。 これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。 しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。 江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。 四天王寺 蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。 見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。 南嶽慧思の生まれ変わり 聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。 『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述がある。 出生の伝説について 「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。 しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。 ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。 片岡飢人(者)伝説 推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。 姓名を問われても答えない。 太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。 太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。 数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。 真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。 使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。 しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。 ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。 太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。 人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。 飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。 聖徳太子虚構説 虚構説とは 近年の歴史学研究においては、太子の実績と考えられていたことを否定する文献批判上の研究や、太子の実在を示す歴史的資料の研究から、日本書紀等の聖徳太子像を虚構とする説もある 聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、「聖徳太子信仰」が後世の人々により形作られていった。 8世紀には、聖徳太子は「日本の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに、『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝が成立した。 江戸後期の考証学者狩谷鍵斎らによる説 十七条憲法を太子作ではないとする説。 津田左右吉の説(1930年) 津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において十七条憲法を太子作ではないと主張した。 その結果、『日本上代史研究』ほか著書四冊は発禁となり、津田左右吉は早稲田大学を辞職している。 高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年) 聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。 大山誠一の『「聖徳太子」の誕生』(1999年) 大山説の概要 有力な王族、厩戸王は実在した。 信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。 『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。 その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧 道慈らである。 十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。 藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。 厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。 さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない。 そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。 また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。 大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。 しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。 聖徳太子虚構説と歴史的資料 概要 聖徳太子については『日本書紀(巻22推古紀)』、「十七条憲法」、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。 )」、「法起寺塔露盤銘」、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。 これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。 日本書紀における聖徳太子像について 大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。 「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。 十七条憲法を太子作ではないとする説 江戸後期の考証学者に始まる。 津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において太子作ではないとしている。 井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している。 また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする。 一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。 道後湯岡碑銘文 伊予湯岡碑文とは 『釈日本紀』や『万葉集註釈』が引用した「伊予風土記逸文」には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧思と葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたされてる。 碑の現物は亡失し、文面のみ『釈日本紀』巻14所引の『伊予風土記』逸文に残っている。 否定説 大山説では、道後湯岡碑銘文は仙覚『万葉集註釈』(文永年間 1264年~1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。 聖徳太子怨霊説 1972年に梅原猛が発表した論考『隠された十字架』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張した。 この説は大論争を巻き起こしたが、歴史学の研究者は、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、 概ね梅原説には批判的であった。

次の

聖徳太子の子孫はいますか?

山背大兄王 系図

レキシン 蘇我入鹿とは?暗殺や家系図、聖徳太子と同一人物という説を解説! 蘇我入鹿の曾祖父にあたる蘇我稲目(そがのいなめ)が宣化天皇(せんかてんのう)の時代に大臣となり、自身の娘を天皇に次々と嫁がせて外戚政治を行い、勢力を拡大していた時代。 この頃、蘇我氏以外に力を持った豪族物部氏と激しく対立し、蘇我稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)は皇位継承で対立した物部守屋を滅ぼし、蘇我氏の独裁権を確立し娘婿となる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に据えて政治改革を推し進めます。 馬子の息子・蘇我蝦夷(そがのえみし)の代になるとその権勢に並ぶべきものがなくなり、いよいよ蘇我氏の専横が激しくなります。 天皇の即位は意のままになるものを当て、息子の入鹿に紫冠(冠位十二階外の最高位の冠)を授け、自分こそが大王(おおきみ)と言わんばかりでした。 この蘇我氏全盛の時代に蘇我蝦夷の息子として登場したのが蘇我入鹿(そがのいるか)です。 蘇我氏を滅亡の道へと歩ませた蘇我入鹿とはどのような人物だったのか、暗殺や家系図、聖徳太子と同一人物だという説を、時代の流れを追って探りたいと思います。 蘇我入鹿とは 生年ははっきりとわかっておらず、600年~610年の生まれではないかと推測されています。 皇極天皇が即位するとき、父の蝦夷が大臣であるにも関わらず、すでに国政を掌握しており、翌年、大臣の座も父・蝦夷から譲られます。 入鹿の時代になると三代続いた蘇我氏の専横に対する不満や批判も大きくなっており、天皇中心の政治制度に戻そうとする動きも強くなって、 入鹿が古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を天皇に擁立しようとしますが、反蘇我氏勢力が山背大兄王(やましろのおおえのおう・聖徳太子の子)の擁立を図ります。 山背大兄王は蘇我一族(母が蝦夷の姉)であったにも関わらず、 入鹿は意のままにならない山背大兄王を攻め、自害に追い込みます。 (これ以上蘇我氏の血族が在位するのは良くないとして討ったとも言われている) 表向きには対抗勢力がなくなった入鹿は皇室行事をも独断で行うなど、揺るぎない独裁体制を築き上げたかに見えましたが、 645年古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿で殺害され、翌日には父の蝦夷も自邸に火を放って自害し、蘇我氏宗家は呆気なく滅亡してしまいます。 そして 大化改新へと繋がっていくのです。 まさしく 「奢れる者は久しからず」の例え通りの没落でした。 蘇我入鹿暗殺、中臣鎌足の決起 では蘇我入鹿暗殺の経緯を、詳細に追っていきましょう。 神祇(朝廷の祭祀)を仕事とする家柄の 中臣鎌足は、蘇我氏の専横を快く思っておらず、なんとか蘇我氏を除いて国家体制を建て直したいと考えていました。 そんな中で蘇我蝦夷、入鹿親子が蘇我氏の個人的な陵墓の造営に一般の民を動員し、そのうえ蝦夷が病気を理由に任官していた大臣の座と紫冠を勝手に息子の入鹿に譲り、入鹿を大臣にしてしまいます。 ここまで来ると中臣鎌足も我慢の限界を越えて打倒蘇我氏を画策し始めます。 まずは実力者で天皇家の血筋である軽皇子に接近しますが、覇気がなく反蘇我氏の旗頭としては役不足と判断し軽皇子を諦め、 次に法興寺で行われた蹴鞠の会で見掛けた中大兄皇子の人柄に触れクーデターの中心人物にと考えます。 二人は南淵請安の私塾へ通う道すがら蘇我氏打倒の秘策を練り続け、蘇我氏の長老・蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れるのに成功、いよいよ実行の機会を伺いました。 蘇我入鹿暗殺、蘇我氏滅亡 645年朝鮮半島からの使者が来日し、天皇への拝謁の儀式(三国の調)が行われることになります。 当然この儀式には蘇我入鹿が出席するため、二人はこれを入鹿排除のチャンスとみて綿密に計画を練ります。 実行犯は 中大兄皇子と中臣鎌足、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田の四人。 機会を伺って中大兄皇子が飛び出し、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田が斬りつけ蘇我入鹿を殺害、遺体は庭に放置されました。 蘇我氏に味方しようとした勢力を説得して回った中大兄皇子派の人々はその切り崩しに成功し、蘇我氏支持派は霧散してしまいます。 翌日、勝ち目がないと判断した蘇我蝦夷は自邸に火を放ち自害、四代続いた蘇我氏の天下は崩壊しました。 蘇我入鹿は聖徳太子と同一人物? 歴史小説家・関裕二(せきゆうじ)が著書の中で唱えた説です。 その根拠については『聖徳太子は蘇我入鹿である』に譲るとして、蘇我入鹿は生年不詳ですが、聖徳太子はその祖父蘇我馬子とともに国政を動かし、冠位十二階や十七条憲法を定めて天皇中心の中央集権国家の基礎を築いた人物です。 史料によれば聖徳太子と蘇我入鹿には約30年の時代差があり、この差の謎が証明されない限り二人が同一人物と言うことが定説になることはありません。 蘇我氏の子孫や家系図 さて、蘇我氏の子孫や家系図が気になるところですね。 実は蘇我氏の血統は、藤原不比等に嫁いだ蘇我娼子という人物から現代にも伝わっているようです。 また、蘇我稲目の娘・蘇我堅塩媛も蘇我氏の血を残したとあります。 さいごに 飛鳥時代の歴史はまだまだ謎な部分が多く、歴史の重要人物である聖徳太子の存在や蘇我入鹿の生年すら立証されていません。 蘇我氏の専横が実は大陸からの唐の侵攻に備えた体制作りのためであった説が唱えられるなど、近年では蘇我氏の政治自体の見直しも進められています。 歴史は過去のものであっても常に新しい発見によって変わっていきます。 もしかしたら10年後には蘇我入鹿は建国の父の評価を得ているかもしれません。

次の

山背大兄王

山背大兄王 系図

はじめに 6世紀から7世紀にかけて、飛鳥の地に本拠地を置いて、ヤマト政権のトップに君臨したのが蘇我氏でした。 蘇我稲目(いなめ)から馬子、蝦夷(えみし)入鹿(いるか)まで4代にわたって大臣(おおまえつきみ:朝廷で最高位の官職)を務めていました。 そして、自分の娘を天皇の后とし、生まれた子を即位させることにより、天皇家の外戚(がいせき)の地位を得て、その権力を強固なものにしていきました。 特に稲目の娘の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)は、共に欽明天皇(在位539~571年)の妃となり、堅塩姫からは用明天皇(在位585~587年:聖徳太子の父)や推古天皇(在位593~628年:女帝)が、小姉君からは、崇峻天皇(すしゅんてんのう:在位587~592年)が生まれています。 まさに我が世の春を謳歌していたとみられます。 しかし、正史とされる『日本書紀』によれば、蝦夷の代(皇極天皇の治世)になると蘇我氏の横暴ぶりが目立ち始め、ついには、その子・入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおうえのおう)一族を滅ぼしてしまいます。 この事件が、天皇家をないがしろにして、自らそれにとって代わろうとするものだとして、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:のちの天智天皇)や中臣鎌足(藤原氏の祖)らがひそかに蘇我本宗家滅亡を企てました。 そして西暦645年、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや:皇極天皇の宮殿)における三韓の義の席で、蘇我入鹿は暗殺されました。 この報を聞いた蝦夷も自決し、ここに100年にわたって権力の座をほしいままにしていた蘇我本宗家は滅びたのです。 『日本書紀』によれば、改革に対する「抵抗勢力」だった蘇我本宗家を滅ぼした後、中大兄皇子を中心にして「大化改新」が進められていったといいます。 すなわち、改革に反対し天皇家の乗っ取りを図った極悪人集団の蘇我本宗家を滅ぼした「英雄」中大兄皇子とその協力者・中臣鎌足こそが、古代日本社会の礎を築いた創始者だったというわけです。 さて・・・・・、本当にそうだったのでしょうか。 『日本書紀』の書いてあることを、全面的に信じてもよいものでしょうか。 もしこれが冤罪だったとすれば、われわれ日本人は1,300年もの間、罪もない人々を重罪人として扱ってきたことになります。 もし蘇我本宗家が『日本書紀』のいうような極悪人集団ではなく、逆に、蘇我氏のほうが古代日本の真の改革者だったとすれば、とんでもない間違いを犯していることになります。 以下では、蘇我本宗家の出自から滅亡までを振り返り、真実の姿を明らかにしていきたいと思います。 蘇我氏の出自(蘇我稲目登場) 蘇我氏の出自については、いくつかの説があります。 いずれにせよ、蘇我氏は、南朝鮮からの渡来人が多く住んでいた大和の飛鳥地方と河内の石川地方に進出し、文字を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事技術、須恵器、馬の飼育技術などの新しい文化や技術を持った渡来人を活用して、大和王権の実務を執り行い、政治の主導権を握っていきました。 蘇我氏が歴史の舞台に華々しく登場するのは稲目(いなめ)の代です。 欽明天皇(きんめいてんのう:在位539~71年)の治世で稲目は大臣(おおまえつきみ)となります。 この職位は、有力豪族の代表である大夫(まえつきみ)との合議を主宰し、王権を代表する外交の責任者でもありました。 稲目は、5世紀ごろに葛城氏が採っていた戦略同様、天皇家(大王家)の外戚となることを目指しました。 天皇家に自分の娘を嫁がせ、そこで生まれた子を新たな天皇に即位させることにより、強固な権力基盤を手に入れようとしたのです。 実際に娘の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の后としました。 堅塩姫は用明天皇はじめ7人の王子と推古天皇を産み、小姉君は崇峻(すしゅん)天皇はじめ4人の皇子と一人の王女を産みました。 天皇家の外戚となることにより、蘇我氏の権力基盤は万全なものになったといえます。 ヤマト王朝が力を入れた政策の一つに、屯倉(みやけ)の拡大がありました。 屯倉とは、中央政府の直轄領のことで、中央から田令(たつかい)が送り込まれ、周辺農民を強制的に働かせることにより経営する土地でした。 蘇我氏は、この屯倉の拡大に大きく貢献し、天皇家の信頼を得ていったといいます。 地方の豪族からの寄進を促したり、不始末を起こした豪族から土地を取り上げるなどして、屯倉を拡大することに奔走しました。 この政策が、のちの土地国有化による中央集権国家体制()の構築につながっていったといいます。 蘇我氏の全盛時代(馬子の時代) 蘇我氏の全盛時代は、稲目の子・馬子の時代でした。 西暦572年、欽明天皇の跡を継いで敏達(びだつ)天皇(在位572~585年)が即位しますが、馬子も父の跡を継いで大臣となります。 敏達天皇には蘇我の血は入っていませんが、即位の4年後に妃の広姫が亡くなった後、堅塩姫(稲目の娘)の子の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ:のちの推古天皇)が皇后に迎えられました。 天皇の周りを蘇我系でがっちり固めていった感じです。 ここで馬子は、長年物部氏と論争を続けてきた「崇仏論争(すうぶつろんそう)」に決着をつけます。 百済から伝わった新しい教えである仏教の信仰を国の基本とする蘇我氏に対して、物部氏は、日本古来の神々を信奉し「邪教(仏教)」を祀るべきではないと反論していました。 用明2年(587)、ついに両者は激突します(丁未の乱:ていびのらん)。 しかし、蘇我馬子には、厩戸皇子(うまやどおうじ:聖徳太子、用明天皇の子)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:のちの崇峻天皇)らも味方に加わり、物部氏を打ち破りました。 この戦いののち、泊瀬部皇子が即位しました。 用明天皇から崇峻天皇と二代続けて馬子の甥が天皇となったのです。 しかし、崇峻天皇の治世は長くは続きませんでした。 大臣である馬子とそりが合わなかったのが要因とされます。 その理由はいくつか挙げられます。 蘇我氏にとっては大伴氏は強力なライバルだった。 この地方支配強化に豪族たちが反発した。 馬子と崇峻天皇の間の亀裂は深まり、ついには馬子が崇峻天皇を暗殺してしまいました。 この事件も蘇我氏の「悪行」の一つだという見方があります。 しかし、『日本書紀』やその他の文献でも、馬子を非難している記述はなく、この事件が大夫層の動揺を招いたという事実もありません。 すなわち、この事件は支配者層の権力争いの一つであって、大臣・馬子と豊御食炊屋姫を中心とする勢力が、天皇派との権力争いに勝利して、その結果崇峻天皇が殺害されたとみるのが妥当なようです。 崇峻天皇が殺害されたのちに天皇に即位したのが豊御食炊屋姫(推古天皇)でした(当時39歳)。 ここに、推古天皇(馬子の姪)、聖徳太子(馬子の甥・用明天皇の息子)、大臣・馬子の三者による、蘇我一族の政権が誕生したのです。 推古天皇の治世では、古代日本の国家の基礎を築き上げるための重要な政策が次々と打ち出されていきました。 『日本書紀』では、これらの政策はすべて、聖徳太子が中心となって成し遂げたとされます。 しかし、天皇家の外戚として、一族から3代(用明・崇峻・推古)も続けて天皇を即位させた蘇我氏の権勢は絶大であり、大臣として他の有力豪族を統制する立場にあった蘇我馬子の意を無視して、聖徳太子が独自に政策を進めることはあり得なかったと思われます。 むしろ、推古天皇時代の政策は馬子の発案であって、聖徳太子がその指示に従って忠実に遂行していったと考えるほうが自然ではないかという意見があります。 ここでそれらの重要政策について簡単にふれておきます。 推古11年(603)、冠位十二階制が施行されました。 当時確立されていた氏姓制度においては、豪族たちの集団である「氏(うじ)」に対して土地の所有が認められ、それぞれの「氏上(うじもかみ:氏を統率する首長)」に「姓(かばね)」が与えられて、その地位の世襲が認められていました。 この仕組みを根底から変えて、個人の才能や功績、忠誠度に応じて官位を授けるようにしたのが冠位十二階制です。 これは、将来の中央集権的な官僚制度構築への第一歩となったといわれます。 しかし、この制度が適用されたのは中央政府の大夫以下の豪族のみであって、蘇我氏や王族、地方豪族は対象外という不完全なものではありました。 推古12年(604)に制定された十七条の憲法は、諸豪族に対する服務規程や道徳的訓戒のようなものでした。 第一条では有名な「和を以て貴しとなし・・・」と、根本理念を謳い、第二条「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」、第三条「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め」 と続きます。 ここで特筆すべきは、「天皇の命令に必ず従え」という第三条よりも先に、第二条で「仏の教えを敬え」と書かれていることです。 仏の教えをこの国の究極の規範として国造りを行っていこうという、馬子たちの熱い思いが読み取れます。 推古天皇の治世では、4回にわたって遣隋使派遣されました。 推古8年(600)の第一次では、隋の高官のみならず朝鮮三国の使者たちまでもが、自分たちよりもはるかに文明化していることに衝撃を受けたといいます。 このことが、のちの様々な改革のきっかけになったことは否定できないでしょう。 推古11年(603)に造営された小墾田宮(おはりだのみや)も、そのひとつでした。 南に南門を構え、その北に諸大夫が勤務する政庁が左右に二棟あり、さらにその北の大門をくぐると、天皇の住居である大殿があったと考えられています。 後世の宮殿の原型となる建物でした。 推古15年(607)の第二次遣隋使では、小野妹子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という国書を持参し、隋の煬帝(ようだい)を怒らせたといわれます。 ヤマト政権としては、中国皇帝からの冊封(さくほう:大和国の統治者として認められる代わりに中国皇帝と君臣関係になること)は求めず、独立した君主をいただくことにより、「東夷の小帝国」を目指したと考えられています。 推古16年(608)の第三次遣隋使には、僧・旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)らの留学生や修行僧が参加しました。 彼らは、隋・唐の先進知識を学ぶととともに、隋の滅亡と唐の成立を間近で見て帰国しました。 この人々が、のちの「大化の改新」の理論的指導者となり、ひいては蘇我本宗家の命運にも大きな影響を与えることになったのです。 蘇我氏苦難の時代(蝦夷・入鹿の時代) 推古36年(626)、蘇我馬子が亡くなりました。 そして翌々年、推古天皇も後を追うように亡くなりました。 このころから、蘇我氏にとっては苦難の歴史が始まります。 馬子の跡を継いで大臣となった蝦夷(えみし:毛人とも記載される)の最初の大仕事は推古天皇の後継者選びでした。 候補者は、敏達天皇の孫・田村皇子と聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の二人でした。 独断では決めかねた蝦夷は、大夫会議に諮りましたが、結果は田村王支持が5名、山背大兄王支持が3名でした。 しかも、蝦夷の弟の倉麻呂は意見を保留としました。 実は蝦夷は、心の中では田村皇子を推していました。 この時すでに、田村皇子と馬子の娘の法提郎女(ほてのいらつめ)の間には古人皇子が生まれており、将来天皇家を継承することを期待してのことだと思われます。 同じ蘇我系である山背大兄王をあまり評価していなかったことも理由だったのかもしれません。 その後、先の大夫会議に出席したメンバーが斑鳩宮(いかるがのみや)に出向いて山背大兄王を説得し、最終的には田村皇子が即位(舒明天皇:じょめいてんのう)することになりました。 ところが、今度は馬子の弟で蝦夷の叔父にあたる境部摩理勢(さかいべのまりせ)が怒りだしました。 摩理勢は生前の聖徳太子と大変仲が良かったので、山背大兄王を強く推していたのです。 蝦夷と摩理勢の対立は激化して武力衝突にまで発展しました。 結果的には、蝦夷が派遣した軍が摩理勢を殺害して鎮圧しましたが、この事件により、蘇我本宗家と他の蘇我一族の間に大きな溝ができてしまったのも事実だったと思われます。 舒明13年(641)、舒明天皇が亡くなった後も、蝦夷の思惑とは違い古人皇子を即位させることはできませんでした。 なんと、舒明天皇の皇后だった宝皇女(皇極天皇)が即位したのです。 皇極天皇にとっては、舒明天皇との間にできた葛城皇子(中大兄皇子:のちの天智天皇)を即位させたかったが、まだ16歳だったので、自分が即位して時間を稼ごうとしたのかもしれません。 いずれにしても、蝦夷の思惑は外れてしまったということです。 しかも、この時期から、『日本書紀』において、蘇我氏の「専横」ぶりを著す記事が目立ってきます。 『日本書紀』が語る蘇我氏の「専横」 皇極元年(642)、蘇我氏は父祖の地である葛城の地に祖廟(祖先を祀る社)を造り、臣下が行ってはならないとされる八佾(はちいつ)の舞を舞わせたといいます。 八佾の舞とは、8人ずつ8列の64人で行う方形群舞で、中国では皇帝の特権とされます(諸侯の場合は、例えば6人X6列=36人で舞う)。 つまり、蘇我氏は自らを王家と同格と宣言したことになるというわけです。 同年、蘇我蝦夷とその子・入鹿(いるか)は、自らの寿墓(じゅぼ:生前に造られる墓)を造営しました。 その墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせ、国中の民、部曲(かきべ:私有民や私兵)、はては上宮王家(厩戸皇子一族)の壬生部(みぶべ:皇子の養育のために設けられた部)の人々までも徴用して使役させたといいます。 これが不敬極まりないと批判されました。 皇極2年(643)には、蝦夷が独断で紫冠を入鹿に授け、大臣の位を譲ってしまいました。 蘇我氏は冠位十二階からは独立した存在なので、紫冠の譲渡は蘇我氏内部の判断で問題ないと思われますが、大臣の職位は天皇から与えられたものなので、これを勝手に譲るということは、王権をないがしろにするもので不敬にあたるとされます。 極めつけは、皇極2年(643)11月に起きた、上宮王家襲撃事件でした。 父・蝦夷の跡を継いだ入鹿は、巨勢徳陀(とくだ)らを派遣して、斑鳩宮の山背大兄王を襲わせました。 山背大兄王とその一族はいったん生駒山に逃げましたが、斑鳩寺(法隆寺)に戻ったところを、入鹿が派遣した兵に囲まれ、一族そろって首をくくって自害して果ててしまいました。 この事実を知った蝦夷は、「ああ、入鹿は、はなはだ愚かなことをしてくれた。 お前の命も危ないのではないか」と嘆いたといいます。 『日本書紀』によれば、古代日本の礎を造った聖人・聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族をことごとく殺してしまった蘇我入鹿は、王家をないがしろにする、不敬極まりない、とんでもない大悪党ということになります。 まさに、蘇我氏の「専横」ぶりが、これでもかこれでもかと書き連ねられていきます。 皇極3年(644)、蝦夷と入鹿は甘樫丘(あまかしのおか:奈良県明日香村)に邸宅を並べて建て、「上の宮門(みかど)」「下の(谷の)宮門」と称しました。 さらに、入鹿は自分の子らを「王子」と呼ばせたといいます。 これらの館には城柵が造られ、門のわきには武器庫が設けられました。 そして、武器を持った屈強な兵たちに守らせていたといいます。 さらに、畝傍山(うねびやま)の東にある蝦夷の館でも、池を掘って砦を造り、武器庫を建てて矢を積んでいたといいます。 また、蝦夷は常に50人の兵士を連れて身辺の警護をさせていたといいます。 『日本書紀』的にいえば、この蘇我氏の武装化の目的が、実は天皇家を滅ぼし自らがその権力の座にとって代わろうという「野望」にあったということになります。 これは乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を暗殺した直後に中大兄皇子が発した言葉からも明らかですが、この件については、後ほど述べます。 蘇我本宗家滅亡(乙巳の変) この蘇我氏の「野望」に大きく立ちはだかったのが中臣鎌足でした。 鎌足は蘇我体制打倒の意志を固め、はじめは軽皇子(のちの孝徳天皇)に近づきますがこれを断念し、次に葛城皇子(中大兄皇子)に近づきます。 鎌足と中大兄皇子は、遣隋使から帰国した南淵請安のもとに通い儒学を学びながら、蘇我体制打倒の策を練っていきました。 さらに鎌足は、蘇我一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ:蝦夷の甥)を調略し、その娘である越智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后に迎えさせ、石川麻呂を仲間に引き入れます。 蘇我一族内部にくすぶっていた対立関係をうまく利用した形です。 かくして、蘇我本宗家(蝦夷、入鹿の家系)滅亡作戦の準備が整いました。 皇極4年(645)6月12日、三韓の儀(百済・新羅・高句麗が日本に朝貢しに来た時に天皇に謁見する儀式)が飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや:皇極天皇の宮殿)で行われました。 この儀式には皇極天皇、古人大兄皇子も参加し、大臣の蘇我入鹿も出席していました。 中臣鎌足は、この儀式で入鹿を暗殺しようと、二人の刺客(佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田)を配置していました。 そして自分も、弓と矢を持って潜んでいました。 入鹿が宮城内に入ると、中大兄皇子の指示で12ある門がひそかに閉められました。 蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始めます。 あらかじめ打ち合わせていた計画によれば、このときに子麻呂と網田が入鹿に斬りかかる手はずでしたが、二人とも緊張のあまり体が動きません。 上表文を読んでいた石川麻呂も、二人が予定通り動かないので緊張のあまり声が震えてしまいました。 それを入鹿にとがめられましたが、「天皇の御前で緊張してしまい声が震えてしまいました」と弁明したといいます。 すると、事態が動かないことに業を煮やした中大兄皇子が、突如入鹿に突進して頭と肩を剣で斬り割きました。 驚いた入鹿が立ち上がろうとすると、ようやく緊張から解放された子麻呂が入鹿の片脚を斬りました。 入鹿は、皇極天皇の前に転がり就いて、「自分が何の罪で誅されるのか」と聞きました。 すると中大兄皇子は、「鞍作(入鹿のこと)は皇族を滅ぼしつくし、皇位を絶とうとしております。 鞍作のために天孫(皇族)が滅びるようなことがあってよいものでしょうか」と答えたといいます。 その後、皇極天皇が宮殿の中に入ると、子麻呂と網田が入鹿に斬りかかり、とどめを刺しました。 その屍は、雨で水浸しとなった前庭にひきずりだされたといいます。 入鹿の問いに答えた中大兄皇子の言葉から明らかなように、『日本書紀』の編者は、蘇我氏が皇位簒奪を企てた極悪人であると断言しています。 それを傍証するかのように、数々の蘇我氏の「横暴」ぶりを紹介し、はては、聖徳太子の子・山背大兄王はじめ上宮王家滅亡を企てた極悪人として非難していたのです。 しかし、天皇家との外戚関係を結び、天皇の権威を利用して政治の実権を握ろうとしたのが蘇我氏の戦略だったはずです。 自らが天皇家にとって代わろうという野望は抱いていなかったはずです。 このあたりの記述には、『日本書紀』の編者の何らかの意図が隠されているように感じられます。 この件については次章で考えてみましょう。 さて、入鹿を暗殺した中大兄皇子らは、板蓋宮を出て蘇我氏の氏寺である飛鳥寺に入り、砦を構えました。 そして、甘樫丘の蝦夷邸に入鹿の遺骸を届けさせました。 これを見た蘇我氏の忠臣・東漢氏(やまとのあやし)らは郎党を集め、武装して陣を張ろうとしました。 中大兄皇子は将軍・巨勢徳陀を蝦夷邸に派遣し説得したといいます。 巨勢徳陀は、1年前の上宮王家襲撃では入鹿に命ぜられ、将軍として参加した人物でした。 結局東漢氏らは説得に応じて武装解除してしまいます。 こうして、蘇我本宗家の命運は尽きたのです。 こののち、蘇我蝦夷も自刃し、蘇我本宗家は滅亡しました(乙巳の変:いっしのへん)。 しかし、蘇我一族すべてがほろんだわけではありません。 入鹿暗殺に加担した石川麻呂が属する蘇我倉氏(河内を地盤とする)が蘇我一族の中心的存在となり、政権の中枢に参加することになりました。 蘇我本宗家の人々は本当に「悪い奴ら」だったのか? 『日本書紀』によれば、「蘇我本宗家、特に蝦夷と入鹿は、天皇家をないがしろにし、それにとって代わろうとした天下の大罪人であり、その蘇我本宗家を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足は、聖徳太子が行った改革を受け継ぎ、天皇を中心とした中央集権国家体制(律令国家体制)構築のために力を尽くしたといいます。 彼らは、古代日本の基盤を築き上げた先駆者であり英雄であった」・・・ということになるのでしょう。 本当にそうだったのでしょうか。 以下では、蘇我氏の「悪行」が、天皇家を滅ぼし自らそれにとって代わろうとする意図で行われたのかという点と、蘇我氏が改革に消極的で「守旧派」であり、中大兄皇子らが「改革派」であったという解釈の正否について、考えてみましょう。 まず、馬子の時代に起きた崇峻天皇弑逆事件についてです。 崇峻天皇は、馬子の甥にあたり、蘇我系の天皇です。 馬子はなぜ、崇峻天皇を殺してしまったのでしょうか。 この理由は先にも述べましたが、崇峻天皇が蘇我氏のライバルである大伴氏に近づき、大伴糠手(ぬかて)の娘を妃にして王子と王女を産ませたことや崇峻天皇の強引な国内政策や対外政策に豪族たちの反発が大きかったためといわれます。 つまり、馬子が崇峻天皇を殺めて自らそれにとって代わろうと考えたのではなく、支配層の間での権力争いの中で、馬子を中心とする勢力が、崇峻天皇一派を打ち破り、結果的に崇峻天皇が殺害された事件だったということです。 皇極元年(642)に、蝦夷が葛城の高宮に祖廟(祖先を祀る社)を造営し、八佾(はちいつ)の舞(中国では皇帝にしか許されない舞)を舞わせたことや、蝦夷と入鹿が寿墓(じゅぼ:生前に造られる墓)を造るために、国中の民、部曲(かきべ:私有民または私兵)、さらには上宮王家(聖徳太子の子孫)に仕える人々までも使役した点はどうでしょうか。 今となっては、事実だったかどうかは確かめようもありませんが、よしんば事実であったとしても、少々おごりが見られる行為ではありますが、この事実をもって、蘇我氏が天皇家乗っ取りを画策していると断定するには、少々無理があるように思われます。 何と言っても決定的なのは、皇極2年(643)に蘇我入鹿が引き起こした上宮王家襲撃事件でした。 入鹿の命を受けた巨勢徳陀(こせのとくだ)らは斑鳩宮の山背大兄王を襲撃しました。 山背大兄王は馬の骨を寝床において、一族とともに生駒山山中に逃げました。 巨勢徳陀らは斑鳩宮を焼き払い、灰の中から骨を見つけ、山背大兄王は亡くなったと判断していったん引き揚げたといいます。 山背大兄王は数日間生駒山中に隠れていました。 側近は、いったん山背から東国に逃げ、再起を図ろうと進言しましたが、山背大兄王は、「その通りにすれば勝つだろう。 しかし、民を使役したくない。 私一人のために民を苦しませたくない」と言って、山を下り、斑鳩寺(法隆寺)に戻りました。 そして、再び軍勢に囲まれると、「私は民を苦しめたくない。 この身ひとつを、入鹿にくれてやろう」と告げ、一族そろって首をくくって自害してしまいました。 「聖人」聖徳太子の子で、彼もまた「聖人」であったとする山背大兄王とその一族を、無抵抗のまま死に至らしめた蘇我入鹿の非道なふるまいを「見事」に表現しています。 しかし、これら『日本書紀』の記述にはいくつかの疑問点があります。 『日本書紀』では、この事件は蘇我入鹿が独断で起こしたとされます。 しかし、例えば『藤原家伝(ふじわらかでん:奈良時代に藤原仲麻呂が編集。 藤原鎌足、不比等親子の伝記)』によれば、入鹿が諸皇子とともに謀って起こしたものだとされます。 他の資料(『聖徳太子伝略』など)にも、軽皇子(のちの孝徳天皇)巨勢徳陀、大伴連馬甘らとともに計画したとあります。 また、事件の原因について『日本書紀』では、入鹿が上宮王家を廃して古人皇子(舒明天皇と馬子の娘・法提郎女<ほてのいらつめ>の子)を擁立しようとしたためと記述されています。 しかし、この時点での古人皇子の最大のライバルは、山背大兄王ではなく舒明天皇と皇極天皇との間に生まれた葛城皇子(中大兄皇子)だという見方が正解だと思われます。 天皇後継争いのために山背大兄王を殺害しようとしたという理由には賛同しかねます。 一方で、軽皇子はじめ多くの重臣が山背大兄王襲撃に加わっていたとすれば、これも中央政府内部の権力争いの一環と考えるべきで、蘇我氏が天皇家乗っ取りのために仕組んだ事件とは到底思えません。 実際、上宮王家襲撃事件に関する『日本書紀』の記述は神話じみていて現実離れしています。 上宮王家一族が自害したとき、「五色の幡蓋(ばんがい:のぼりと旗)が宙を舞い、伎楽(ぎがく)が奏でられ、空に照り輝き、寺に垂れ下がった」といいます。 人々はその様子を見て嘆き、入鹿に指し示しましたが、「幡蓋は黒雲に変じ、入鹿は見ることができなかった」といいます。 また、山背大兄王が残した馬の骨を焼け跡から見つけて王子が死んだと判断したのも不可解ですし、生駒山に逃げたとき、側近が「東国にいったん引き揚げて再起を図りましょう」と進言したときも、自ら「勝てる」と断言していたにみかかわらず、「民のために犠牲になる」といって、一族皆を道連れにして自害したのも、「聖人」として取るべき行動だったのか、はなはだ疑問です。 このような疑念から、上宮王家襲撃事件は、『日本書紀』の創作だったのではないかという説もあります。 事件現場となった法隆寺では、平安時代に至るまで上宮王家一族を祀った形跡がないといいます。 さらに、何十人かいたはずの一族の墓がどこにも見当たらないということも不可解です。 非業の死を遂げた一族は、丁重に祀られることもなく、忽然とこの世から消えてしまったというのです。 蘇我氏の「横暴」ぶりを示す記述がもう一つあります。 皇極3年(644)、蝦夷と入鹿は、彼らの本拠地である甘樫丘(あまかしのおか:奈良県明日香村)に邸宅を並べて建てました。 そして「上の宮門(みかど)」「下の(谷の)宮門」と称しました。 さらに入鹿は、自分の子たちを「王子」と呼んだといいます。 これらが事実であったとすれば、蘇我氏に「驕り」があったことになりますが、さらに重要なのは、この邸宅が武装化、要塞化されたことでした。 館には城柵が造られ、門のわきには武器庫が設けられました。 そして、武器を持った屈強な兵たちに守らせていたといいます。 さらには、畝傍山(うねびやま:甘樫丘北西約3㎞)の東にある蝦夷の館でも、池を掘って砦を造り、武器庫を建てて矢を積んでいたといいます。 また、蝦夷は常に50人の兵士を連れて身辺の警護をさせていたともいわれます。 この武装化が、天皇家に対する軍事的圧力になったという指摘があります。 しかし、蘇我氏の戦略は、一族の娘を天皇に嫁がせ、そこで生まれた子を即位させることにより天皇家の外戚として権力を握ることでした。 天皇家の権威を利用して、中央政界で実権を握ることだったはずです。 天皇家をつぶしては元も子もないわけです。 それにとって代わろうなどとは考えていなかったのです。 この蘇我氏の武装化は、むしろ天皇を中心とする中央集権国家体制に反発する地方豪族からの反乱に対処するためだったのではないでしょうか。 そして、実は改革派の中心にいた蘇我氏が、天皇家を外敵から守るために武装化していったとも考えられます。 ここで一つ明らかにしなければならない点があります。 蘇我氏は本当に改革派だったのか、あるいは『日本書紀』が主張するように守旧派だったのかという点です。 次に、この点について考えたみたいと思います。 5世紀から6世紀にかけて、職能集団として部民を束ね、天皇に奉仕する首長は「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていました。 その中でも巨大な勢力を誇る首長たちは、「国造(くにのみやつこ)」に任じられ、地域一帯の支配者として認められる代わりに、屯倉(みやけ:中央政権の直轄地)を献上し、さらに子弟を差し出し宮の警護にあたらせていました。 6世紀になると、朝廷は屯倉を増やす政策を推進しました。 首長層に圧力をかけて、豪族たちの土地を没収して直轄領を増やしていったのです。 そして、この政策遂行に最も尽力したのが蘇我氏だったと、『日本書紀』も実例をいくつか挙げて記述しています。 この屯倉の増設政策が、「公地公民制」による将来の中央集権化に向けてのステップだったといわれます。 蘇我氏は、この改革の先頭に立って働いていたというわけです。 推古天皇の治世で行われた様々な改革は、古代日本における制度改革(からへ)の基盤を作る重要なものでした。 冠位十二階制は、中央政府の大夫以下の豪族(王族や蘇我氏は含まれない)の地位の世襲化を廃して、個人の能力や功績、忠誠度に応じて官位を授けるという画期的なものでした。 十七条の憲法は、仏の教えをこの国の究極の規範として、国づくりを行っていこうという、基本的な考え(規範)を示したものでした。 4度にわたる遣隋使の派遣では、隋の政治制度の先進性に刺激を受けました。 その結果、様々な改革が断行されました。 また遣隋使として隋に渡り、隋の滅亡と唐の建国を目の当たりにした留学生たち(僧旻、高向玄理、南淵請安など)は、帰国後、「大化の改新」の理論的指導者となり、制度改革に貢献したといいます。 問題は、これらの改革が誰の主導によってなされたかです。 『日本書紀』では、聖徳太子が行った改革だったと書いています。 本当にそうだったのでしょうか。 聖徳太子が推古天皇の「摂政」の地位についたとき、蘇我馬子はすでに50歳を過ぎ、大臣としてのキャリアも20年以上となっていました。 まさに馬子の全盛期でした。 しかも聖徳太子は馬子にとって姉の孫です。 いかに、聖徳太子が『日本書紀』のいうような「傑出した天才児」だったとしても、馬子を無視して勝手に政務をとることはできなかったはずです。 いやむしろ、馬子の方針には逆らえなかったと考えるのが自然でしょう。 作家の松本清張氏は、その著書『清張通史4 天皇と豪族』で、次のように述べています。 「厩戸皇子にとって馬子は祖母の弟であり、男である。 皇子が皇太子となり「摂政」となったときは、すでに馬子は実務派の大物大臣として二十一年間も在職をつづけ、ときに五十歳をこえてぃたと思われる。 この、がんじがらめの縁故。 馬子のこのキャリア。 この貫禄の相違。 」 どうやら、これが真実だったような気がします。 推古天皇の治世における様々な改革は、蘇我馬子が主導して行ったものでしょう。 すなわち、ここまでは蘇我氏は改革派だったということです。 それでは、蝦夷・入鹿の時代はどうだったのでしょうか。 「大化改新」は、乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が暗殺されたのち、孝徳天皇(在位645~654年))の治世で本格的に始まったとされます。 そしてこの改革には、中大兄皇子が主導的役割を果たしていたとされます。 ところが、孝徳天皇は、実は蘇我本宗家の政治路線を継承していたという説があります。 さらに、門脇禎二氏の著書『蘇我入鹿・蝦夷』によれば、「孝徳天皇が即位直後に宣言した難波遷都は入鹿存命中にすでに決まっていたことだった」といいます。 孝徳天皇は、忠実にその方針を実行に移しただけだというのです。 その根拠は、『日本書紀』の大化元年冬12月の記事にあるといいます。 鼠の移動の話は文飾で、遷都のことを指していると解釈できます。 問題は、「春から夏に至るまで」の部分です。 この当時、春は1~3月、夏は4~6月です。 乙巳の変で入鹿が暗殺されたのは、この年の6月ですから、春から夏までは、入鹿が実権を握っていた時期です。 すなわち、難波遷都が計画されていたのは、入鹿が存命で権勢をふるっていた時期だったというわけです。 ところで孝徳期の難波宮は、それまでの宮殿とは比べものにならないほど大規模だった事が発掘調査で判明しています。 回廊と南門で守られた北側の区画は、東西185m、南北200mの天皇の住む内裏で、宮殿が建ち、南門の左右には八角形の楼閣が建っていたといいます。 南門と宮城南面にある朱雀門(すざくもん)との間は、政治・儀式の場である朝堂院で、広さは、南北262. 8m、東西233. 6mあり、左右対称に14の朝堂が並んでいました。 さらに、内裏と朝堂院の外側にも、いくつかの役所が存在していました。 が敷かれていた可能性もあるといいます。 難波宮遺跡からは、導入後に用いられたと考えられていた祭祀具のセットや、律令制実施を匂わせる木簡も見つかっています。 すなわち難波宮は、天皇中心の中央集権国家の政庁として、律令制をも視野に入れた宮であったと思われます。 この難波宮が、蘇我入鹿の発案で造営されたとすれば、彼もまた改革派であって、旧態依然とした制度を改革して、先進国中国に追いつくべく汗を流していたとみるのが正しい解釈ではないでしょうか。 ちなみに、難波宮が完成した白雉3年(652)の翌年、中大兄皇子は難波宮を捨てて飛鳥に帰ることを進言し、これが孝徳天皇に拒否されると、中大兄皇子は、母(皇極天皇)、間人皇后(はしひとのきさき:中大兄皇子の妹、孝徳天皇の正妃)を連れて飛鳥に戻ってしまいました。 臣下の大半も皇子に従ったといいます。 一人残された孝徳天皇は嘆き悲しみ、翌年失意のうちに亡くなってしまいました。 ・・・・しかし、これもおかしな話です。 「改革派」であるはずの中大兄皇子が、律令制導入を本格的に進めようとして建設した難波宮を、完成後まもなく捨ててしまったのは理解に苦しみます。 一説によれば、朝鮮情勢が緊迫していたので、瀬戸内海に面した難波では防衛体制に不安だったためといわれます。 しかし、それならば、後年白村江の戦で大敗を喫したのちに中大兄皇子自らが配備したように、北九州や中国地方の各所に砦(城)を築き、防備を固めるべきです。 難波まで攻め込まれたら、飛鳥だろうが近江だろうがすぐに攻め込まれてヤマト政権は滅亡してしまうでしょう。 要するに、中大兄皇子には、改革の意志はなかったということです。 いやむしろ、入鹿が、難波に都を遷し律令国家建設のために改革を強引に進めようとしたことが、自分たちの土地を奪われることに危機感を感じた豪族達の反発を招き、それに同調した中大兄皇子や中臣鎌足が豪族たちの支持を背景にして入鹿暗殺に及んだという構図が浮かんできます。 これが、乙巳の変の隠された真実ではないでしょうか。 蘇我氏が改革派であったとすれば、その開明性はどこから生まれてきたのでしょうか。 蘇我氏は、南朝鮮からの渡来人が多く住んでいた大和の飛鳥地方(あるいは河内の石川地方)に進出し、彼らの先進的な技術や文化を活用してヤマト王権の実務を行い、政治の主導権を握っていきました。 渡来人集団には、部族的なタテ割り制度や排他的な血統主義などはなく、極めて平等的で民主的な集団だったといいます。 このような渡来人集団と密に付き合っていく中で、蘇我氏の人々にも、平等的で進歩的な考えが芽生えていったのかもしれません。 その結果、排他的なタテ割り社会を変え、平等性の高い(特権階級は別枠だが)新しい制度への改革意識が高まっていったのかもしれません。 蘇我氏の開明性は、渡来人集団からの影響で育まれたものだったのではないでしょうか。 乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿は、遣隋使として隋にわたって帰国した僧・旻のもとで学び、旻からは非常に高い評価を受けています(『藤原家伝』より)。 入鹿もまた、唐帰りの新知識に触れながら、新しい政治体制の形成を夢見ていたとしても不思議ではないでしょう。 蘇我本宗家は、稲目から入鹿に至るまで、旧来の政治体制を打破して、天皇を中心とした中央集権国家(律令国家)づくりを目指した改革派だったのです。 しかしながら、『日本書紀』(の編者)は、蘇我氏の手柄を横取りして、中大兄皇子と中臣鎌足の手柄にすり替えたのです。 そのために、「聖人」で「傑出した天才児」聖徳太子を登場させ、蘇我氏が行った改革を聖徳太子の実績とし、蘇我氏の「悪行」をあることないこと書き連ねたのです。 そして最後には、「極悪非道」の蘇我入鹿が、「英雄」中大兄皇子に成敗されるという筋書きが必要だったのでしょう。 『日本書紀』が描いた蘇我本宗家の姿は、偽物だった可能性が高まってきました。 それにしても、時の権力者が自らを正当化するために歴史を改ざんすることが、いかに大きな罪悪であるかを、改めて感じさせられます。 蘇我本宗家の人々の魂が、安らかであることを念願してやみません。 この地域には鬼が住み、霧を降らせて通行人をとらえ、俎の上で料理をし、雪隠で用を足していたという伝説がある。

次の