のぶ たけ。 豚カツと和食 のぶたけ

武田信繁

のぶ たけ

甲陽二十四将之一個 武田左馬之介信繁(作) 時代 生誕 5年() 死没 4年() 改名 次郎(幼名)、武田信繁、吉田信繁 別名 典厩(仮名)、古典厩 戒名 松操院殿鶴山巣月大居士 墓所 (篠ノ井杵淵) 官位 主君 氏族 、 父母 父:、母: 兄弟 、、、 信繁、信基(信友? )、、、、、、、、、、(正室)、、花光院(浦野氏室)、(正室)、正室、室、葛山氏室、(室) 妻 養周院日藤尼、出自不詳 子 、 、、娘(室) 武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、の。 18代・の子で、の同母弟。 官職である左馬助のから「 (てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・も典厩を名乗ったため、後世「 古典厩」と記される。 においては武田の副大将として位置づけられている。 生涯 [ ] 『』に拠れば、信繁は5年()、の子として生まれる。 幼名は 次郎。 武田氏では10年()に信虎の嫡男晴信が信虎をの今川氏のもとに追放しているが、『』によれば、信繁は幼少期から信虎に寵愛され、信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうとしていたという逸話を記している。 また、文書上では確認されていないが、『高白斎記』に拠れば天文20年(1551年)2月1日に信繁は武田氏庶流のを襲名したという。 晴信期に武田氏はを本格化させ、をはじめとする信濃国衆やのとの甲越対決が発生するが、晴信の家督相続時には姉婿のとともに信繁は唯一御一門衆の中で成人とみなし得る立場にあり、晴信の補佐役として信濃経略に従事している。 『甲陽軍鑑』に拠れば、天文11年の諏訪侵攻において信繁は大将として宿老のとともに諏訪出兵を主導し、同年9月のの反乱に際しても鎮圧の大将を務めたとしており、晴信からの勘気を受けた(光堅)は頼継弟の蓮芳斎を討ち取り、信繁が取次となり赦免されたという逸話を記している。 諏訪を制圧した武田氏は信方を郡代とし、信繁にも諏訪衆を同心として付属させたという。 天文13年には信虎の高野山参詣に際して宿坊となった引導院への礼状を発給しており、対外交渉への携わりも確認される。 天文20年(1551年)7月には村上攻めのため先衆として出陣しており(「恵林寺旧蔵文書」)、天文22年(1553年)4月には甲斐衆今井岩見守に対し落城した信濃国主任命を通達し、同じく4月には攻略した村上方のに在城していた(信友)に対しても上位を通達した他(ともに『高白斎記』)、恩賞の付与などを行っている。 武田氏はやがて北信地域を巡り越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争を繰り広げるが(川中島の戦い)、天文24年には景虎の越後帰陣を報告している。 武田氏は征服した信濃諸族に対し一族を養子にし懐柔させる方策を取っているが、信繁の子も信濃のの養子となっている。 4年()9月10日、第4次で討死する。 信繁は『武田法性院信玄公御代惣人数之事』『甲陽軍鑑』等における武田家臣団において、同母弟である信廉とともに武田姓の称号を免許される御一門衆に属し、信繁・信豊の武田典厩家は信廉の武田逍遥軒家とともに御一門衆の筆頭に位置する。 信繁は武田領国内において城番として領域支配を行っていることが確認されず、基本的には甲府に在住して武田家の外交に参与し、合戦の際には信玄名代として軍事指揮権を発動し、先衆を統制する立場で出陣していたと考えられている。 人物 [ ] 武田氏では晴信をはじめ一族には文人的業績を残している人物がいるが、信繁は天文17年にはらが甲斐を訪れた際に和歌を詠んでいる。 また、永禄元年(1558年)4月には、99箇条の家訓を作成し、嫡子長老(信豊)に対し与えている。 これは序文を長禅寺住職の春国光新が撰文しており、内容も『論語』をはじめ中国古典から引用された箇所があり、信繁の教養を物語るものとして注目されている。 信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、敵軍のらからもその死は惜しまれたという。 武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、後年の信玄との対立はなかったといわれるほどである。 は「 古典厩信繁、こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『』)。 は後に生まれた次男に「」と名づけている。 においても「まことの武将」との評価があるほど人気があり、嫡子に残した99ヶ条にわたる『武田信繁家訓』(の原型)は、江戸時代のの心得として広く読み継がれており、江戸時代のであるは「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。 甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している(『』) 関連作品 [ ]• (1969年、、演:)• (1988年、NHK大河ドラマ、演:)• (1990年、映画、演:)• (2007年、NHK大河ドラマ、演:、幼少期:) 脚注 [ ] []• 「武田信玄とその一族」柴辻編『新編武田信玄のすべて』(2008、新人物往来社)• 信玄期には武田一族においても武田姓を免許される家は御一門衆においても限られており、信繁については吉田姓を襲名した記録が見られるものの文書上からは確認されず、信繁は御一門衆筆頭としての特別な立場にあったと考えられている(平山優「武田信玄の家臣団編成」『新編武田信玄のすべて』)。 なお、同時期には晴信嫡男の義信が元服しており、信繁の吉田氏継承は武田宗家から外れ庶流家当主となることで義信の武田宗家後継者としての立場を明確にするための政治的配慮であった可能性も考えられている(丸島 2007)。 『甲陽軍鑑』における諏訪侵攻の経緯は年次の誤りを多く含み評価は慎重視されるが、高遠蓮芳斎の討取や虎房の活躍は『高白斎記』においても確認され、丸島和洋は信繁が甲信国境のを率いていることからも、諏訪侵攻において大将を務めていた可能性には一定の信憑性があると評している(丸島 2007)。 『』に拠る。 第四次川中島の戦いについては文書・記録史料ともに少なく合戦の実情が不明であるが、信繁をはじめとする武田重臣の戦死から激戦であったと考えられており、近世に成立した『甲陽軍鑑』をはじめ江戸時代には様々な軍記物において合戦に関する虚実入り交じった逸話が流布するが、信繁の戦死については『上杉謙信申状』、『北越軍談』、『武辺咄聞書』などにおいて、かつての宿敵であるの手によって討ち取られた、あるいは死の直前に討死を覚悟しに形見を託したなどの逸話を記している。 平山(2008) 参考文献 [ ]• 「武田信繁」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年• 平山優「武田信玄の家臣団」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年• 「戦国大名武田氏の一門と領域支配」『戦国史研究』第53号、2007年 関連項目 [ ]•

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武田信虎

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生涯 [ ] 信虎の出生と生年 [ ] 明応3年(1494年)もしくは明応7年()1月6日、武田氏の第17代当主・の嫡男として生まれる。 初名は 信直(のぶなお)。 生年の明応3年説は前期に成立した『』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたもので、江戸後期に編纂された地誌『』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認している。 また、昭和戦前期には広瀬広市が信虎の菩提寺である甲府市古府中町の大泉寺過去帳・に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。 明応3年説は昭和戦後期に、、、らによって支持されてきたが、にはが『(甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している。 も大正時代に原本は焼失したものの、『甲斐国志』にその引用が残されている所蔵の『武田信虎誕生疏』が『大井俣神社本紀』の記事を裏付けるものである としている。 なお、信虎の母に関しては古くは『甲斐国志』の記事により信縄正室の崇昌院と考えられてきた(人物部第三)が、一方で信縄側室の岩下氏の出身地である岩下村(現在の山梨県笛吹市春日居町岩下)に信虎の誕生屋敷があるとも記されてきた(古跡部第一)。 ところが、廣瀬廣一が信虎の祖父であるの菩提寺であった永昌院の住持であったの法語集である『菊隠録』の中に岩下氏を信虎の母、岩下越前守を信虎の母の兄とする付箋があることを指摘 し、岩下氏生母説が有力となった。 また、平山優は崇昌院生母説の根拠の1つとされてきた高野山十輪院の『武田家過去帳』にある彼女を「甲州武田信虎御母様」と表記に疑問を呈し、「御母様」という表現になっているのは崇昌院が信虎の生母ではなく、側室所生の信虎を正室である彼女の子として位置づけたことによるものである、と指摘している。 また、平成20年(2008年)に山梨県笛吹市が実際に誕生屋敷の伝承地を発掘調査をしたところ、16世紀初頭の武家屋敷とみられる遺構の存在が確認されており、少なくても岩下氏の一族がここに屋敷を構えていた事実は確認されている。 武田宗家の統一 [ ] の甲斐国では、23年()のに守護・が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方のや郡内地方のらの勢力やのらが台頭し、乱国状態となっていた。 寛正6年()7月には守護・が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年()には信昌の嫡男・が家督を相続した。 信昌は落合(落合)において隠居すると、信縄の弟であるに家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。 信縄・信恵間の抗争は両者に甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し、のでは内紛が発生し、のと、将軍の命を受けた(北条早雲)によりが追放されると信縄は茶々丸を支持し、さらにのとも結んだ。 対して信恵は駿河国の今川氏親・の伊勢宗瑞と結び対立した。 明応7年()8月25日に発生したの影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡の吉田()に亡命していた足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて切腹した。 信縄が家督を継承し、2年()9月16日に信昌が死去し、『』によれば永正3年10月17日に生母岩下氏(信縄側室)が 、『』によれば永正4年2月14日には信縄が続けて死去する。 これにより信直(信虎)が家督と甲斐守護職を継承し、再び信恵派との抗争が再開される。 信直の叔父にあたる信恵は弟の・(惣次郎)や都留郡の国衆・のほか、河村氏・工藤氏・上条氏らと結び、信直に対抗した。 永正4年()に信縄が没すると、信恵派は挙兵するが、永正5年()10月4日の勝山城の戦い(境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美や栗原昌種・、信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らが戦死した。 これにより信直による武田宗家の統一が達成される。 甲斐国衆との戦い [ ] 信恵の滅亡後に、小山田弥太郎は国中侵攻を行い敗死する ()。 都留郡では工藤氏や小山田一門・境小山田氏の小山田平三が伊勢氏(後北条氏)のもとへ亡命する。 永正6年()秋に信虎は都留郡へ侵攻し、翌永正7年()春には小山田氏を従属させる。 『勝山記』によれば、信虎は弥太郎の子・(越中守信有)に実妹を嫁がせている。 また、都留郡へ近い勝沼(勝沼町)には実弟・を配した。 この頃には甲斐北西部においても戦乱や信濃国諏訪郡の諏訪氏の侵攻が起こり、『高白斎記』によれば、永正6年10月には(逸見氏)の本拠である江草城が小尾弥十郎により攻略された。 また、『一蓮寺過去帳』によれば、同年12月には現在の北杜市須玉町若神子の「テウガ城(丁衙城か)」における合戦で(碧雲斎)による攻勢によりの弟である平三()とその侍者である源三(谷戸源三)が戦死したという。 『勝山記』によれば、永正10年()5月27日には甲斐国河内領の当主・が子息のにより殺害される事件が発生する。 『菊隠録』によれば信懸の息女は信虎の本拠である川田館(甲府市川田町)近くに居住しており、信虎と友好な関係を築く一方で、今川氏親や伊勢宗瑞とも関係の深い両属の立場にあり、信懸の暗殺の背景には穴山氏家中における帰属を巡る対立があったとも考えられている。 穴山氏当主となった(信風)は今川氏に帰属し、永正12年()には今川氏は甲斐へ侵攻する。 『勝山記』『一蓮寺過去帳』『宗長手記』によれば、さらに西郡の国衆である・親子も今川方に帰属し、同年10月17日に信虎は小山田信有とともに大井氏の本拠である(戸田)を攻めるが敗退し、小山田大和守・・飯富源四郎らが戦死した。 この合戦の際にも今川氏が介入する姿勢を示し、甲駿国境を封鎖している。 『王代記』『高白斎記』によれば、永正13年()9月28日に今川勢は甲斐侵攻を行い、信虎は本拠の川田館に近い万力において敗退し、今川勢は沿いの(甲府市上曽根町)を占拠すると、各地を放火した。 『勝山記』によれば、都留郡においても同年12月に吉田山城(富士吉田市)を拠点とした今川勢と郡内衆が戦い、永正14年()1月12日に吉田山城が陥落すると、郡内衆と今川氏の間で和睦が成立した。 この頃、今川氏はにおいて・が攻めを行っていたため今川氏親は信虎との和睦に転じ、『勝山記』『宗長手記』『宇津山記』によれば、武田・今川間はのが仲介し3月2日に和睦が成立し、今川氏は甲斐から退去した。 なお、永正15年は小山田氏と今川氏の間でも和睦が成立している。 (永正17年)に信虎は大井氏とも和睦し、信達の娘()を正室に迎える。 甲府開設と甲斐統一 [ ] 甲斐国のは信昌・信縄期には石和館(甲府市川田町・石和町)に置かれていたが、『王代記』によれば、信虎は永正15年()に信虎は守護所を相川扇状地の(甲府市古府中町)へ移転する。 『高白斎記』によれば、信虎は永正16年(1519年)8月15日から甲府にであるの建設に着手し、(武田城下町)を整備し、有力国衆ら家臣を集住させた。 要害山城遠景 永正16年4月には今井信是が信虎に降伏し、甲府移転は信是の降伏を契機にしていると考えられている。 『勝山記』『高白斎記』によれば、有力国衆は甲府への集住に抵抗し、永正17年()5月には「栗原殿」(か)・今井信是・大井信達らが甲府を退去する事件が発生し、信虎は6月8日に都塚(笛吹市一宮町本都塚・北都塚)において栗原勢を撃破し、さらに6月10日には今諏訪(南アルプス市今諏訪)において今井・大井勢を撃破している。 同年8月頃には今川・武田両軍の間で合戦が発生しており、この間に空白期間があることから、穴山氏当主・信風が今川方に服属していたと考えられている。 『勝山記』によれば、同年8月下旬に信虎は河内へ出兵すると、今川方のを撃破している。 これにより穴山氏は武田家に降伏し、信虎は駿河にいた「武田八郎」(信風の子・か)の甲斐帰国を許している。 9月には今川勢が攻勢を強め、9月16日には大井氏の居城である(南アルプス市戸田)を陥落させた。 信虎は要害山城へ退き、10月16日に飯田河原の戦い(甲府市飯田町)で今川勢を撃退し、(甲府市上曽根)に退かせる。 さらに11月23日に上条河原の戦い(島上条一帯)で福嶋氏を打ち取り、今川勢を駿河へ駆逐した。 甲斐市島上条に鎮座する八幡神社境内の飯田河原合戦供養板碑 この最中に、要害山城では嫡男・が産まれている。 信虎は穴山氏も服属させるが、福嶋勢は翌年正月の武田・今川間の和睦まで甲斐国内で抵抗を続けた。 大永元年には信虎自身のへの補任と叙爵を室町幕府に対し申請し、『後柏原天皇宸記』『』によれば、同年4月に政所執事のが伝奏のとともにこれを奏し、信虎はに叙せられる。 武田家では・・信昌三代が「形部大輔」の官途名を名乗っていたが、信虎は自身の官途を改める意志を持っていたことが指摘される。 また、嫡男の晴信の幼名も歴代の「五郎」に対して「太郎」を用いている。 今川勢を撃退した大永2年()に信虎は家臣とともにへ参詣し「御授法」を受けている。 また、『勝山記』によれば、信虎は身延山参詣の後にへの登山を行っている。 信虎は富士山頂を一周する「」を行っている。 「お鉢廻り」は富士山頂の高所を八枚の蓮弁に見立て「八葉」と称し、後には富士山頂の八葉を廻る御鉢参りの習俗が成立する。 信虎の富士登山は御鉢参りの習俗が戦国期に遡る事例として注目されている。 信虎の身延山参詣と富士登山については、甲斐一国の平定を成し遂げ駿河今川氏、相模後北条氏との緊張関係が続いている情勢から、自身の地位を確立するための宗教的示威行為であると考えられている。 また、大永2年には前年に信虎が甲府における菩提寺として建立したに国内の僧侶を集めてを開催したのも、その一環とされる。 両上杉氏との同盟と対外勢力との戦い [ ] 大永年間には対外勢力との抗争が本格化する。 信虎は両上杉と同盟し伊勢氏()と敵対する信縄期の外交路線を継承し、大永4年()2月には両上杉氏支援のため都留郡猿橋(猿橋町猿橋)に軍勢を集め、相模国奥三保(神奈川県)へ侵攻する。 同年3月にも武蔵国秩父へ出兵し、関東管領のと対面している。 なお、憲房は3月25日に死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。 『高白斎記』によれば同年7月20日には北条方の武蔵()・を攻める。 信虎は遠征から帰国すると翌大永5年()にかけてと和睦する。 まもなく氏綱はのと連携して上野侵攻を企図し信虎に領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。 『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かったとともに相模(相模原市)を攻撃している。 『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた諏訪大社下社のと推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命し、信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で衝突するが、武田方はが戦死し大敗した。 大永6年()には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。 『勝山記』によれば、大永6年には信虎の風聞が流れたが、これは実現していない。 翌大永7年()2月には将軍とが京都を脱出してへ逃れる事件が発生し、信虎は京へ使者を派遣している。 将軍義晴は諸国の大名・国衆に上洛を促しており、信虎に対しても4月27日付ので上洛を要請し、6月19日付の御内書では上杉憲寛・諏訪頼満・に対して信虎上洛への助力を命じている。 同年6月3日には信濃のの要請により信濃へ出兵する。 『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは和睦を受け入れたという。 7月には駿河国で今川氏親が死去しが家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する。 元年()に諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦()で諏訪頼満・に敗退する。 『勝山記』によれば、信虎は享禄3年()にはの当主・の斡旋で山内上杉氏の前・上杉憲房の後室をに迎えた。 憲房の後室は朝興の叔母にあたり、これは扇谷上杉氏との関係を強化する縁組であると考えられている。 年次は不明であるが、信虎は両上杉氏と関係の深いの・とも外交関係を持っている。 こうした信虎と両上杉氏との関係強化は、相模国の後北条氏(伊勢氏が大永3年()に北条改姓)との対立が激化し、上杉朝興が後北条領の江戸へ侵攻すると、信虎は小山田氏の関東派遣を企図するが、小山田勢は甲相国境の都留郡八坪坂(大野)で北条勢に敗退し、扇谷上杉氏との連携に失敗する。 一方で、武田家中では上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、享禄4年()正月21日には・・らが甲府を退去して御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗し、韮崎()へ侵攻した信濃諏訪郡の諏訪頼満と同調する。 さらに西郡のも国人勢に呼応するが、信虎は2月2日の合戦で大井信業・今井備州らを滅ぼし、4月12日には河原部合戦()において栗原兵庫ら国人連合を撃破した。 さらに天文元年()9月にはに対して攻勢を強め、本拠である獅子吼城(浦城、北杜市須玉町)を明け渡させた。 『勝山記』によれば、享禄元年()には甲斐一国内を対象としたを発している。 この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。 『勝山記』によれば、享禄2年(1529年)には小山田氏との関係が悪化し、信虎が郡内への路地封鎖を行う事件が発生する。 このときは小山田信有の生母が遠江国に姉のもとを訪ねて周旋し、路地封鎖は解除された。 天文2年()には嫡男・晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え、天文3年()11月に輿入れした。 これにより武田氏と扇谷上杉氏は一時的に重縁関係となるが、朝興の娘が死去したため、これは解消された。 4年()には今川攻めを行い、甲駿国境の万沢()で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏がを越え山中()へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。 同年には諏訪氏と和睦する。 諏訪・今川氏との和睦 [ ] 信虎は天文4年()9月17日、信虎は諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面し、上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立した。 天文5年()、『歴代土代』によれば、正月の(じもく)で、嫡男の太郎は従五位下・左京大夫に叙せられている。 『』では欠損部があるものの、信虎が従四位に叙せられたことを記していると考えられている。 「高代寺日記」『後鑑』によれば、同年3月には嫡男の太郎がし、信虎は将軍義晴に対してを求め、太郎は「晴」の一字を拝領して「晴信」と名乗る。 なお、晴信は天文10年(1541年)の信虎追放後に官途名を「大膳大夫」に改めている。 同年3月17日には、駿河国で同年4月10日に当主・今川氏輝と弟のが同日に死去し、氏輝の弟である善徳寺承芳(後の)との間で家督を巡るが発生する。 信虎は北条氏綱とともに善徳寺承芳を支援し、同年6月14日に玄広恵探が自害することで善徳寺承芳が勝利する。 新たに当主となった義元と信虎の間では同盟関係が結ばれており、信虎は早い段階から義元自身や後見人のらと接触していたと考えられている。 『勝山記』によれば天文6年2月10日には信虎長女・定恵院が義元正室となり、婚姻関係が結ばれた。 嫡男晴信の正室・上杉朝興の娘は天文4年に死去しており、これ以降に信虎は義元の斡旋により、晴信正室に公家のの娘()を迎えている。 正確な時期は不明であるが、『』では天文5年の晴信元服の直後であるとしている。 『勝山記』によれば、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、同年6月に甲斐国内に亡命していた反義元派を支援した前嶋一門が切腹させており、これに対して反発する奉行衆が甲斐を退去する事件も発生している。 また、今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に対には反発し、北条・今川間で抗争が発生する(第一次)。 第一次河東の乱では甲駿同盟は軍事同盟として機能し、信虎はへ兵を派遣し今川氏を支援している。 一方の後北条氏は天文7年に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年()に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する。 信虎は両上杉氏と同盟関係を持っていたが、天文6年(1537年)にが家督を継いだ頃には扇谷上杉氏はすでに本拠地の川越を失い没落していた。 天文7月(1538年)10月には信虎と外交関係を持っていた小弓公方の足利義明が滅亡。 これで関東における信虎の同盟者は山内上杉氏のみとなった。 天文5年()11月に信虎は信濃佐久郡に出陣しており、これが嫡男晴信のとなる。 天文9年()にはを浦城(旧)で降伏させる。 『塩山向嶽庵小年代記』によれば、同年4月にと同調して信濃佐久郡へ出兵し、はじめて甲斐国外における所領を獲得する。 同年11月には諏訪頼重に信虎の娘・が嫁ぎ、諏訪氏との同盟関係が強化される。 『神使御頭之日記』によれば、12月9日には頼重が甲府を訪れ、12月17日には信虎自身が諏訪を訪問している。 天文8年()11月には幕府内談衆のが信虎に使者を派遣しており、将軍義晴に近いと交流があったことが確認される。 『証如上人日記』によれば、天文9年()からと信虎との交流が記録されている。 信濃では諏訪氏のほかとも結び、『高白斎記』によれば、天文10年()5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行っている。 この遠征に信虎は晴信とともに出陣し、小県郡()で起きたで駆逐されたが上野へ亡命して関東管領・を頼ると、憲政は佐久郡へ出兵した。 信虎は同盟国である山内上杉氏と衝突することを避け撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国する。 帰国した信虎は6月14日に今川義元訪問のためを駿河へ向かうが、この最中に晴信が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発生する。 信虎の甲斐追放 [ ] 天文10年()6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うためにを駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる。 ・ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、晴信は武田家家督と守護職を相続する。 信虎は今川義元の元に寓居することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子をもうけている。 信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、「堀江家所蔵文書」 年未詳9月23日付の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促している。 晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。 信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。 小和田哲男はこの義元書状を天文11年()に比定し、文中に見られる「」の語句から、信虎追放は「天道思想」に裏付けられた行為であるとした。 一方で、平山優は「天道」の語句は晴信が信虎女中衆を駿河へ派遣する時期を易筮(えきぜい)により占い、「天道」はこの易筮の結果を指すものとして、これを否定している。 事件の背景には諸説ある。 信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男のを偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。 さらには信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたためというものまで伝わっている。 いずれにせよ、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。 また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。 近年、平山優は『勝山記』などに記載された米や小麦の価格の変動から、経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を指摘している。 今川氏による路次封鎖と前年の凶作が重なった永正13年(1519年)に過去にない物価高騰が見られ、また享禄2年(1529年)にも小山田氏との対立に端を発する路次封鎖によって物価高騰がみられる。 平山によれば、周辺諸国と激しく対立して四囲が敵であった時期もあった信虎期には路次封鎖や凶作がたちまち物価高騰や飢饉を招いたとする。 そして、天文9年(1540年)に東海・甲信地方を襲った台風と推測される大規模風雨を原因とする凶作に伴って翌10年は当該地域は大飢饉に陥っている。 こうした状況に国内の信虎への反発が高まり、これに危機感を抱いた晴信とその周辺が信虎を追放したとする。 『勝山記』などによる領民の歓迎は、晴信が「代替わり徳政」を実施したことも理由であるとしている。 しかし、信虎の悪行伝説はやはり荒唐無稽でそのままでは信じられない面があることが指摘される。 また、『勝山記』なども近い時代の史料ではあるが、年代記であり後に改変や挿入の可能性も指摘される。 信虎の悪行を具体的に記した一次史料は殆ど無く、在地の信虎の伝承や記録には信虎を悪くいう内容はない、とする意見もある。 信虎の悪行は『甲陽軍鑑』に萌芽が見られ、『甲陽軍鑑末書』や『竜虎豹三品』の「竜韜品」、『武田三代軍記』といったのテキストの中で次第に作り上げられていった。 信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちがを行ったとも考えられている。 追放後の活動 [ ] 天文12年()6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。 晴信は今川氏、後北条氏とを形成すると信濃侵攻を本格化させのとのを展開しているが安定した領国支配を行っており、この頃に信虎は出家して「無人斎道有」を名乗っていることからも信虎は甲斐国主への復権を諦め隠居を受けいれていたと考えられている。 また、今川家中では義元の「御舅殿」として遇されて今川一門よりも上位に置かれていた。 天文12年の上方遊歴においては京都から・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあったも使者を派遣して挨拶している。 さらに信虎は武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日にはが信虎の奈良遊歴を記している。 信虎は奈良を遊歴すると同月15日には駿河国へ戻っている。 天文19年()には今川義元の室になっている娘が死去している。 その後は上方における消息もみられず駿河国で過ごしていたと考えられていたが、息子であるに「家督」を譲った後の弘治3年(1558年)以降は生活の拠点を京都に移し、幕府に在京奉公するようになる。 今川家では永禄3年(1560年)5月のにおける当主義元が討死するとへ当主交代する。 武田家では、翌永禄4年の第四次川中島の戦い以降、北信を巡るとの抗争が収束し、永禄7年(1567年)には義元娘を正室とする晴信嫡男のが廃嫡されるが発生し、これらの情勢の変化を背景に甲駿関係は悪化し、甲駿同盟は手切となり永禄11年(1568年)には武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始される()。 『甲陽軍鑑』や『武田源氏一統系図』において信虎の再上洛は桶狭間以降としているが、公家の は義元生前の元年()から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており 、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。 信虎は在京前守護として・に仕候し、言継は永禄2年()において信虎の身分を「外様」「大名」と記しており 、儀礼的には高い席次であり、信虎は上洛していた同じの一族でもあるら諸大名と交流しており、やら公家との文化的交流もしており、永禄3年()にはに娘 と共に、を嫁がせている。 この永禄3年から永禄5年(1562年)末まで信虎は駿府に在住もしくは京都と駿府を往復していた可能性が高い。 その理由としては、永禄3年6月に発生した桶狭間の戦いでの今川義元が戦死して報を聞いたことによって息子である信友や外孫である今川氏真の身を案じた行動と考えられる。 永禄7年()から永禄10年()、信虎はの地頭の一人である甲賀氏のもとに身を寄せていた。 この間、が志摩を追われの配下となっているが、信虎は少なからずこの事件と何らかの関わりをもったものと考えられる。 この事が、のちの派遣と関連があるのかは定かではない。 永禄8年()には将軍・義輝がに討たれるが発生する。 『言継卿記』においては信虎の動向が記されず不明で、一時的に駿河国に戻っていた可能性も考えられている(丸島)。 永禄10年()には在京であることが確認され、その後も在京活動を続けている。 なお、『甲陽軍鑑』や『松平記』では信虎が信玄に氏真の排除を勧めて、これを知った氏真によって追放されたとするが、実際の信虎の京都移住は信友への家督相続で隠居の身になったことによるもので、またその後も信虎が反今川氏的な行動を見せたとする証拠は存在しない(平山優はこうした事実があるならば、駿府にいた信友ら家族の身に危険が及ぶ筈であるが、そうした事実はないことからも否定できるとする)。 永禄11年()にはのが三好政権を駆逐して上洛し、を将軍に奉じている。 武田氏は信長と同盟関係にあり信虎も将軍義昭に仕候しているが、信長と同盟関係にあったのとは敵対しており、年間には信長との関係も手切となり、信玄は将軍・義昭が迎合した反信長勢力に呼応して大規模な・三河への侵攻を開始する()。 元亀4年()3月10日に義昭は信長に対して挙兵するが、義昭の動向は信長に内通したにより知らされており、信虎は義昭の命でに派遣され、反信長勢力のとともに攻撃を企図していたという。 また、平山優は甲賀に幕臣としての信虎の所領が存在していた可能性を指摘している。 義昭の挙兵は、同年4月12日に信玄が西上作戦の途上で死去し武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力は滅ぼされ義昭も京から追放されている。 甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、天正2年()に信虎は可愛がっていた三男・の居城であるに身を寄せ、勝頼とも対面したという。 同年3月5日、伊那の娘婿・(の長男)の庇護のもと、信濃高遠で死去した。 葬儀は信虎が創建した甲府ので行われ、供養は高野山成慶院で実施されている。 没後 [ ] 甲府駅北口にある「武田信虎公之銅像」(2019年5月2日撮影) になってから、躑躅ケ崎館に居館を移して甲府の町の基礎を作った人物としての観点から再評価の動きがあり、平成31年(元年・)の「甲府開府500年」に先立って前年の平成30年()に北口に武田信虎の青銅像が建立された。 では、信虎像の寄贈の他、放映「甲府を作った男・武田信虎」の配信、大泉寺での信虎報恩供養、漫画「信玄のパパ 武田信虎のほんとの話」(漫画:、協力:平山優)連載などを行っている。 人物 [ ]• 江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったという。 諫言した家臣を度々手打ちにしたと伝えられている。 、、、ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したと言われる(信虎に殺されて絶えた名跡の多くを、子の信玄が復活させている。 嫡男・晴信(信玄)に公家の三条公頼の娘を迎え、婚姻政策を展開して今川氏などの近隣勢力と同盟を結ぶなど、積極的な外交政策をとった。 この婚姻により晴信とが義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となるなど、後の武田家の外交政策にも影響を及ぼした。 息子の武田信廉によって描かれた信虎の肖像画が現存している。 晴信以外の息子との関係は良かったとも推測されている。 名刀を所有しており、今川義元に伝わる。 桶狭間の戦い後に織田信長に渡ったが、により焼失した。 後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、より徳川家康に伝わり現在に至る。 関連作品 [ ] TVドラマ• (1966年、、演:)• (1969年、、演:)• (1988年、NHK大河ドラマ、演:)• (1991年、、演:)• (1991年、、演:)• (1992年、、演:)• (2007年、NHK大河ドラマ、演:) 小説• 『室町お伽草紙』(1991年、)• 『武田修羅伝ー帰って来た信虎』(2001年、)• 『画龍点睛』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)• 虎の牙(、講談社、• ほっせん(、小説現代1月、) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 『高白斎記』は直接明応7年正月6日生まれであることを記述しているが、『大井俣神社本紀』は具体的な日付を欠くものの天文8年に信虎が42歳の厄年に息子の晴信を大井俣神社(現在の)に派遣して大規模な祈祷や修繕を行ったとするものである(逆算すると明応7年生まれとなる)。 一方の『武田信虎誕生疏』は理由は書かれていないものの天文8年の信虎の誕生日に大規模な祈祷を行ったとする内容である。 平山はこの両者の記事は無関係ではなく、天文8年正月6日に42歳の誕生日を迎えた信虎が国内の寺社に厄年の祈願をさせたことを意味しているとする。 晴信は家督相続に際して官途名を「左京太夫」から「大膳大夫」に改めており、信虎期の外交方針を転換し、信濃諏訪氏との関係を手切とし、信濃侵攻を本格化させ山内上杉氏とも敵対していく。 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。 余リニ悪行ヲ成サレ候間、カヨウニメサレ候。 サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。 山科言継は弘治2年(1556年)に駿河へ下向しており、翌弘治3年2月25日の連歌会においては信虎の子信友が参加している。 駿河時代に誕生した娘。 その下に京都で誕生した娘がおり、父の死後に武田勝頼に引き取られて武田氏滅亡時に死去したとみられ、『信長公記』に登場する「信虎京上臈のむすめ」はその娘と推定されている。 当時の勝頼は東美濃で織田信長と対峙して、2月6日に明知城を落としている。 それから1か月後には信虎が死去していることから、信虎と勝頼の対面は2月の限られた時期に限定されることになる(平山優は2月15日頃の出来事と推測する)。 ただし、高遠に禰津常安の邸宅があったとする記録はなく、高遠で死去したのが誤りなのか、禰津屋敷で死去したのが誤りなのかの可能性があるという。 出典 [ ] []• 秋山「武田信虎の生年について」『武田氏研究』(35号、2006年)• 平山(2019)、p. 18-20• 廣瀬『武田信玄伝』紙硯社、1944年• 平山(2019)、p. 14-17• 平山(2006)、p. 117• 平山(2006)、pp. 2 - 3• 平山(2019)、p. 平山(2006)、p. 58 - 59• 118• 59 - 60• 60 - 61• 119• 『高白斎記』『王代記』• 119 - 120• 120• 『武田氏と富士山』『 通史編 2中世』• 62 - 63• 長谷川幸一「戦国大名武田氏と曹洞宗-武田信虎による大泉寺開創-」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) P202-205• 123• 124• 125• 126• 125 - 126• 127• 128• 63 - 64• 『享禄元年の徳政令』『山梨県史 通史編2 中世』• 128 - 129• 121• 129• 122• 平山(2006)、p. 130• 『勝山記』• 131• 『勝山記』『高白斎記』• 『戦武』 - 4012号• 129• 小和田哲男『武田信玄』講談社、1987年• 『妙法寺記』• 平山(2019)、p. 249-263・354-356• 大木丈夫 「武田信虎悪行伝説の形成について」『武田氏研究』第49号、2013年11月15日、pp. 28-45。 平山(2019)、p. 375-379• 『証如上人日記』• 平山(2019)、p. 375-379• 平山(2019)、p. 33-34• 平山(2019)、p. 368-371• 『中世・志摩国編年実記(鳥羽市文化財調査委員編纂)』• 平山(2019)、p. 377-379・391-394• 『細川家文書』• 平山(2019)、p. 399-401• 『軍鑑』• 平山(2019)、p. 402-407• 平山(2019)、p. 407• 『武田家過去帳』• - 甲府商工会議所 参考文献 [ ]• 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い 上』学研M文庫、2002年• 平山優『武田信玄 歴史文化ライブラリー221』吉川弘文館、2006年• 編『武田信虎のすべて』(、2007年)• 「武田信虎の家督相続」• 数野雅彦「武田信虎の甲府開創」• 「武田信虎の系譜」• 柴辻俊六「武田信虎の領国経営」• 「武田信虎の信仰と宗教政策」• 「武田信虎と今川氏」• 大木丈夫「武田信虎の神社政策と在地支配」『武田氏研究』36号、2007年• 柴辻俊六「武田氏の外交戦略と領域支配」『戦国期武田氏領の形成』校倉書房、2007年• 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 関連項目 [ ]•

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小田野展丈

のぶ たけ

生涯 [ ] 信虎の出生と生年 [ ] 明応3年(1494年)もしくは明応7年()1月6日、武田氏の第17代当主・の嫡男として生まれる。 初名は 信直(のぶなお)。 生年の明応3年説は前期に成立した『』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたもので、江戸後期に編纂された地誌『』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認している。 また、昭和戦前期には広瀬広市が信虎の菩提寺である甲府市古府中町の大泉寺過去帳・に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。 明応3年説は昭和戦後期に、、、らによって支持されてきたが、にはが『(甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している。 も大正時代に原本は焼失したものの、『甲斐国志』にその引用が残されている所蔵の『武田信虎誕生疏』が『大井俣神社本紀』の記事を裏付けるものである としている。 なお、信虎の母に関しては古くは『甲斐国志』の記事により信縄正室の崇昌院と考えられてきた(人物部第三)が、一方で信縄側室の岩下氏の出身地である岩下村(現在の山梨県笛吹市春日居町岩下)に信虎の誕生屋敷があるとも記されてきた(古跡部第一)。 ところが、廣瀬廣一が信虎の祖父であるの菩提寺であった永昌院の住持であったの法語集である『菊隠録』の中に岩下氏を信虎の母、岩下越前守を信虎の母の兄とする付箋があることを指摘 し、岩下氏生母説が有力となった。 また、平山優は崇昌院生母説の根拠の1つとされてきた高野山十輪院の『武田家過去帳』にある彼女を「甲州武田信虎御母様」と表記に疑問を呈し、「御母様」という表現になっているのは崇昌院が信虎の生母ではなく、側室所生の信虎を正室である彼女の子として位置づけたことによるものである、と指摘している。 また、平成20年(2008年)に山梨県笛吹市が実際に誕生屋敷の伝承地を発掘調査をしたところ、16世紀初頭の武家屋敷とみられる遺構の存在が確認されており、少なくても岩下氏の一族がここに屋敷を構えていた事実は確認されている。 武田宗家の統一 [ ] の甲斐国では、23年()のに守護・が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方のや郡内地方のらの勢力やのらが台頭し、乱国状態となっていた。 寛正6年()7月には守護・が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年()には信昌の嫡男・が家督を相続した。 信昌は落合(落合)において隠居すると、信縄の弟であるに家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。 信縄・信恵間の抗争は両者に甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し、のでは内紛が発生し、のと、将軍の命を受けた(北条早雲)によりが追放されると信縄は茶々丸を支持し、さらにのとも結んだ。 対して信恵は駿河国の今川氏親・の伊勢宗瑞と結び対立した。 明応7年()8月25日に発生したの影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡の吉田()に亡命していた足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて切腹した。 信縄が家督を継承し、2年()9月16日に信昌が死去し、『』によれば永正3年10月17日に生母岩下氏(信縄側室)が 、『』によれば永正4年2月14日には信縄が続けて死去する。 これにより信直(信虎)が家督と甲斐守護職を継承し、再び信恵派との抗争が再開される。 信直の叔父にあたる信恵は弟の・(惣次郎)や都留郡の国衆・のほか、河村氏・工藤氏・上条氏らと結び、信直に対抗した。 永正4年()に信縄が没すると、信恵派は挙兵するが、永正5年()10月4日の勝山城の戦い(境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美や栗原昌種・、信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らが戦死した。 これにより信直による武田宗家の統一が達成される。 甲斐国衆との戦い [ ] 信恵の滅亡後に、小山田弥太郎は国中侵攻を行い敗死する ()。 都留郡では工藤氏や小山田一門・境小山田氏の小山田平三が伊勢氏(後北条氏)のもとへ亡命する。 永正6年()秋に信虎は都留郡へ侵攻し、翌永正7年()春には小山田氏を従属させる。 『勝山記』によれば、信虎は弥太郎の子・(越中守信有)に実妹を嫁がせている。 また、都留郡へ近い勝沼(勝沼町)には実弟・を配した。 この頃には甲斐北西部においても戦乱や信濃国諏訪郡の諏訪氏の侵攻が起こり、『高白斎記』によれば、永正6年10月には(逸見氏)の本拠である江草城が小尾弥十郎により攻略された。 また、『一蓮寺過去帳』によれば、同年12月には現在の北杜市須玉町若神子の「テウガ城(丁衙城か)」における合戦で(碧雲斎)による攻勢によりの弟である平三()とその侍者である源三(谷戸源三)が戦死したという。 『勝山記』によれば、永正10年()5月27日には甲斐国河内領の当主・が子息のにより殺害される事件が発生する。 『菊隠録』によれば信懸の息女は信虎の本拠である川田館(甲府市川田町)近くに居住しており、信虎と友好な関係を築く一方で、今川氏親や伊勢宗瑞とも関係の深い両属の立場にあり、信懸の暗殺の背景には穴山氏家中における帰属を巡る対立があったとも考えられている。 穴山氏当主となった(信風)は今川氏に帰属し、永正12年()には今川氏は甲斐へ侵攻する。 『勝山記』『一蓮寺過去帳』『宗長手記』によれば、さらに西郡の国衆である・親子も今川方に帰属し、同年10月17日に信虎は小山田信有とともに大井氏の本拠である(戸田)を攻めるが敗退し、小山田大和守・・飯富源四郎らが戦死した。 この合戦の際にも今川氏が介入する姿勢を示し、甲駿国境を封鎖している。 『王代記』『高白斎記』によれば、永正13年()9月28日に今川勢は甲斐侵攻を行い、信虎は本拠の川田館に近い万力において敗退し、今川勢は沿いの(甲府市上曽根町)を占拠すると、各地を放火した。 『勝山記』によれば、都留郡においても同年12月に吉田山城(富士吉田市)を拠点とした今川勢と郡内衆が戦い、永正14年()1月12日に吉田山城が陥落すると、郡内衆と今川氏の間で和睦が成立した。 この頃、今川氏はにおいて・が攻めを行っていたため今川氏親は信虎との和睦に転じ、『勝山記』『宗長手記』『宇津山記』によれば、武田・今川間はのが仲介し3月2日に和睦が成立し、今川氏は甲斐から退去した。 なお、永正15年は小山田氏と今川氏の間でも和睦が成立している。 (永正17年)に信虎は大井氏とも和睦し、信達の娘()を正室に迎える。 甲府開設と甲斐統一 [ ] 甲斐国のは信昌・信縄期には石和館(甲府市川田町・石和町)に置かれていたが、『王代記』によれば、信虎は永正15年()に信虎は守護所を相川扇状地の(甲府市古府中町)へ移転する。 『高白斎記』によれば、信虎は永正16年(1519年)8月15日から甲府にであるの建設に着手し、(武田城下町)を整備し、有力国衆ら家臣を集住させた。 要害山城遠景 永正16年4月には今井信是が信虎に降伏し、甲府移転は信是の降伏を契機にしていると考えられている。 『勝山記』『高白斎記』によれば、有力国衆は甲府への集住に抵抗し、永正17年()5月には「栗原殿」(か)・今井信是・大井信達らが甲府を退去する事件が発生し、信虎は6月8日に都塚(笛吹市一宮町本都塚・北都塚)において栗原勢を撃破し、さらに6月10日には今諏訪(南アルプス市今諏訪)において今井・大井勢を撃破している。 同年8月頃には今川・武田両軍の間で合戦が発生しており、この間に空白期間があることから、穴山氏当主・信風が今川方に服属していたと考えられている。 『勝山記』によれば、同年8月下旬に信虎は河内へ出兵すると、今川方のを撃破している。 これにより穴山氏は武田家に降伏し、信虎は駿河にいた「武田八郎」(信風の子・か)の甲斐帰国を許している。 9月には今川勢が攻勢を強め、9月16日には大井氏の居城である(南アルプス市戸田)を陥落させた。 信虎は要害山城へ退き、10月16日に飯田河原の戦い(甲府市飯田町)で今川勢を撃退し、(甲府市上曽根)に退かせる。 さらに11月23日に上条河原の戦い(島上条一帯)で福嶋氏を打ち取り、今川勢を駿河へ駆逐した。 甲斐市島上条に鎮座する八幡神社境内の飯田河原合戦供養板碑 この最中に、要害山城では嫡男・が産まれている。 信虎は穴山氏も服属させるが、福嶋勢は翌年正月の武田・今川間の和睦まで甲斐国内で抵抗を続けた。 大永元年には信虎自身のへの補任と叙爵を室町幕府に対し申請し、『後柏原天皇宸記』『』によれば、同年4月に政所執事のが伝奏のとともにこれを奏し、信虎はに叙せられる。 武田家では・・信昌三代が「形部大輔」の官途名を名乗っていたが、信虎は自身の官途を改める意志を持っていたことが指摘される。 また、嫡男の晴信の幼名も歴代の「五郎」に対して「太郎」を用いている。 今川勢を撃退した大永2年()に信虎は家臣とともにへ参詣し「御授法」を受けている。 また、『勝山記』によれば、信虎は身延山参詣の後にへの登山を行っている。 信虎は富士山頂を一周する「」を行っている。 「お鉢廻り」は富士山頂の高所を八枚の蓮弁に見立て「八葉」と称し、後には富士山頂の八葉を廻る御鉢参りの習俗が成立する。 信虎の富士登山は御鉢参りの習俗が戦国期に遡る事例として注目されている。 信虎の身延山参詣と富士登山については、甲斐一国の平定を成し遂げ駿河今川氏、相模後北条氏との緊張関係が続いている情勢から、自身の地位を確立するための宗教的示威行為であると考えられている。 また、大永2年には前年に信虎が甲府における菩提寺として建立したに国内の僧侶を集めてを開催したのも、その一環とされる。 両上杉氏との同盟と対外勢力との戦い [ ] 大永年間には対外勢力との抗争が本格化する。 信虎は両上杉と同盟し伊勢氏()と敵対する信縄期の外交路線を継承し、大永4年()2月には両上杉氏支援のため都留郡猿橋(猿橋町猿橋)に軍勢を集め、相模国奥三保(神奈川県)へ侵攻する。 同年3月にも武蔵国秩父へ出兵し、関東管領のと対面している。 なお、憲房は3月25日に死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。 『高白斎記』によれば同年7月20日には北条方の武蔵()・を攻める。 信虎は遠征から帰国すると翌大永5年()にかけてと和睦する。 まもなく氏綱はのと連携して上野侵攻を企図し信虎に領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。 『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かったとともに相模(相模原市)を攻撃している。 『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた諏訪大社下社のと推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命し、信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で衝突するが、武田方はが戦死し大敗した。 大永6年()には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。 『勝山記』によれば、大永6年には信虎の風聞が流れたが、これは実現していない。 翌大永7年()2月には将軍とが京都を脱出してへ逃れる事件が発生し、信虎は京へ使者を派遣している。 将軍義晴は諸国の大名・国衆に上洛を促しており、信虎に対しても4月27日付ので上洛を要請し、6月19日付の御内書では上杉憲寛・諏訪頼満・に対して信虎上洛への助力を命じている。 同年6月3日には信濃のの要請により信濃へ出兵する。 『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは和睦を受け入れたという。 7月には駿河国で今川氏親が死去しが家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する。 元年()に諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦()で諏訪頼満・に敗退する。 『勝山記』によれば、信虎は享禄3年()にはの当主・の斡旋で山内上杉氏の前・上杉憲房の後室をに迎えた。 憲房の後室は朝興の叔母にあたり、これは扇谷上杉氏との関係を強化する縁組であると考えられている。 年次は不明であるが、信虎は両上杉氏と関係の深いの・とも外交関係を持っている。 こうした信虎と両上杉氏との関係強化は、相模国の後北条氏(伊勢氏が大永3年()に北条改姓)との対立が激化し、上杉朝興が後北条領の江戸へ侵攻すると、信虎は小山田氏の関東派遣を企図するが、小山田勢は甲相国境の都留郡八坪坂(大野)で北条勢に敗退し、扇谷上杉氏との連携に失敗する。 一方で、武田家中では上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、享禄4年()正月21日には・・らが甲府を退去して御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗し、韮崎()へ侵攻した信濃諏訪郡の諏訪頼満と同調する。 さらに西郡のも国人勢に呼応するが、信虎は2月2日の合戦で大井信業・今井備州らを滅ぼし、4月12日には河原部合戦()において栗原兵庫ら国人連合を撃破した。 さらに天文元年()9月にはに対して攻勢を強め、本拠である獅子吼城(浦城、北杜市須玉町)を明け渡させた。 『勝山記』によれば、享禄元年()には甲斐一国内を対象としたを発している。 この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。 『勝山記』によれば、享禄2年(1529年)には小山田氏との関係が悪化し、信虎が郡内への路地封鎖を行う事件が発生する。 このときは小山田信有の生母が遠江国に姉のもとを訪ねて周旋し、路地封鎖は解除された。 天文2年()には嫡男・晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え、天文3年()11月に輿入れした。 これにより武田氏と扇谷上杉氏は一時的に重縁関係となるが、朝興の娘が死去したため、これは解消された。 4年()には今川攻めを行い、甲駿国境の万沢()で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏がを越え山中()へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。 同年には諏訪氏と和睦する。 諏訪・今川氏との和睦 [ ] 信虎は天文4年()9月17日、信虎は諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面し、上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立した。 天文5年()、『歴代土代』によれば、正月の(じもく)で、嫡男の太郎は従五位下・左京大夫に叙せられている。 『』では欠損部があるものの、信虎が従四位に叙せられたことを記していると考えられている。 「高代寺日記」『後鑑』によれば、同年3月には嫡男の太郎がし、信虎は将軍義晴に対してを求め、太郎は「晴」の一字を拝領して「晴信」と名乗る。 なお、晴信は天文10年(1541年)の信虎追放後に官途名を「大膳大夫」に改めている。 同年3月17日には、駿河国で同年4月10日に当主・今川氏輝と弟のが同日に死去し、氏輝の弟である善徳寺承芳(後の)との間で家督を巡るが発生する。 信虎は北条氏綱とともに善徳寺承芳を支援し、同年6月14日に玄広恵探が自害することで善徳寺承芳が勝利する。 新たに当主となった義元と信虎の間では同盟関係が結ばれており、信虎は早い段階から義元自身や後見人のらと接触していたと考えられている。 『勝山記』によれば天文6年2月10日には信虎長女・定恵院が義元正室となり、婚姻関係が結ばれた。 嫡男晴信の正室・上杉朝興の娘は天文4年に死去しており、これ以降に信虎は義元の斡旋により、晴信正室に公家のの娘()を迎えている。 正確な時期は不明であるが、『』では天文5年の晴信元服の直後であるとしている。 『勝山記』によれば、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、同年6月に甲斐国内に亡命していた反義元派を支援した前嶋一門が切腹させており、これに対して反発する奉行衆が甲斐を退去する事件も発生している。 また、今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に対には反発し、北条・今川間で抗争が発生する(第一次)。 第一次河東の乱では甲駿同盟は軍事同盟として機能し、信虎はへ兵を派遣し今川氏を支援している。 一方の後北条氏は天文7年に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年()に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する。 信虎は両上杉氏と同盟関係を持っていたが、天文6年(1537年)にが家督を継いだ頃には扇谷上杉氏はすでに本拠地の川越を失い没落していた。 天文7月(1538年)10月には信虎と外交関係を持っていた小弓公方の足利義明が滅亡。 これで関東における信虎の同盟者は山内上杉氏のみとなった。 天文5年()11月に信虎は信濃佐久郡に出陣しており、これが嫡男晴信のとなる。 天文9年()にはを浦城(旧)で降伏させる。 『塩山向嶽庵小年代記』によれば、同年4月にと同調して信濃佐久郡へ出兵し、はじめて甲斐国外における所領を獲得する。 同年11月には諏訪頼重に信虎の娘・が嫁ぎ、諏訪氏との同盟関係が強化される。 『神使御頭之日記』によれば、12月9日には頼重が甲府を訪れ、12月17日には信虎自身が諏訪を訪問している。 天文8年()11月には幕府内談衆のが信虎に使者を派遣しており、将軍義晴に近いと交流があったことが確認される。 『証如上人日記』によれば、天文9年()からと信虎との交流が記録されている。 信濃では諏訪氏のほかとも結び、『高白斎記』によれば、天文10年()5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行っている。 この遠征に信虎は晴信とともに出陣し、小県郡()で起きたで駆逐されたが上野へ亡命して関東管領・を頼ると、憲政は佐久郡へ出兵した。 信虎は同盟国である山内上杉氏と衝突することを避け撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国する。 帰国した信虎は6月14日に今川義元訪問のためを駿河へ向かうが、この最中に晴信が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発生する。 信虎の甲斐追放 [ ] 天文10年()6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うためにを駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる。 ・ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、晴信は武田家家督と守護職を相続する。 信虎は今川義元の元に寓居することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子をもうけている。 信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、「堀江家所蔵文書」 年未詳9月23日付の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促している。 晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。 信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。 小和田哲男はこの義元書状を天文11年()に比定し、文中に見られる「」の語句から、信虎追放は「天道思想」に裏付けられた行為であるとした。 一方で、平山優は「天道」の語句は晴信が信虎女中衆を駿河へ派遣する時期を易筮(えきぜい)により占い、「天道」はこの易筮の結果を指すものとして、これを否定している。 事件の背景には諸説ある。 信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男のを偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。 さらには信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたためというものまで伝わっている。 いずれにせよ、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。 また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。 近年、平山優は『勝山記』などに記載された米や小麦の価格の変動から、経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を指摘している。 今川氏による路次封鎖と前年の凶作が重なった永正13年(1519年)に過去にない物価高騰が見られ、また享禄2年(1529年)にも小山田氏との対立に端を発する路次封鎖によって物価高騰がみられる。 平山によれば、周辺諸国と激しく対立して四囲が敵であった時期もあった信虎期には路次封鎖や凶作がたちまち物価高騰や飢饉を招いたとする。 そして、天文9年(1540年)に東海・甲信地方を襲った台風と推測される大規模風雨を原因とする凶作に伴って翌10年は当該地域は大飢饉に陥っている。 こうした状況に国内の信虎への反発が高まり、これに危機感を抱いた晴信とその周辺が信虎を追放したとする。 『勝山記』などによる領民の歓迎は、晴信が「代替わり徳政」を実施したことも理由であるとしている。 しかし、信虎の悪行伝説はやはり荒唐無稽でそのままでは信じられない面があることが指摘される。 また、『勝山記』なども近い時代の史料ではあるが、年代記であり後に改変や挿入の可能性も指摘される。 信虎の悪行を具体的に記した一次史料は殆ど無く、在地の信虎の伝承や記録には信虎を悪くいう内容はない、とする意見もある。 信虎の悪行は『甲陽軍鑑』に萌芽が見られ、『甲陽軍鑑末書』や『竜虎豹三品』の「竜韜品」、『武田三代軍記』といったのテキストの中で次第に作り上げられていった。 信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちがを行ったとも考えられている。 追放後の活動 [ ] 天文12年()6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。 晴信は今川氏、後北条氏とを形成すると信濃侵攻を本格化させのとのを展開しているが安定した領国支配を行っており、この頃に信虎は出家して「無人斎道有」を名乗っていることからも信虎は甲斐国主への復権を諦め隠居を受けいれていたと考えられている。 また、今川家中では義元の「御舅殿」として遇されて今川一門よりも上位に置かれていた。 天文12年の上方遊歴においては京都から・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあったも使者を派遣して挨拶している。 さらに信虎は武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日にはが信虎の奈良遊歴を記している。 信虎は奈良を遊歴すると同月15日には駿河国へ戻っている。 天文19年()には今川義元の室になっている娘が死去している。 その後は上方における消息もみられず駿河国で過ごしていたと考えられていたが、息子であるに「家督」を譲った後の弘治3年(1558年)以降は生活の拠点を京都に移し、幕府に在京奉公するようになる。 今川家では永禄3年(1560年)5月のにおける当主義元が討死するとへ当主交代する。 武田家では、翌永禄4年の第四次川中島の戦い以降、北信を巡るとの抗争が収束し、永禄7年(1567年)には義元娘を正室とする晴信嫡男のが廃嫡されるが発生し、これらの情勢の変化を背景に甲駿関係は悪化し、甲駿同盟は手切となり永禄11年(1568年)には武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始される()。 『甲陽軍鑑』や『武田源氏一統系図』において信虎の再上洛は桶狭間以降としているが、公家の は義元生前の元年()から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており 、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。 信虎は在京前守護として・に仕候し、言継は永禄2年()において信虎の身分を「外様」「大名」と記しており 、儀礼的には高い席次であり、信虎は上洛していた同じの一族でもあるら諸大名と交流しており、やら公家との文化的交流もしており、永禄3年()にはに娘 と共に、を嫁がせている。 この永禄3年から永禄5年(1562年)末まで信虎は駿府に在住もしくは京都と駿府を往復していた可能性が高い。 その理由としては、永禄3年6月に発生した桶狭間の戦いでの今川義元が戦死して報を聞いたことによって息子である信友や外孫である今川氏真の身を案じた行動と考えられる。 永禄7年()から永禄10年()、信虎はの地頭の一人である甲賀氏のもとに身を寄せていた。 この間、が志摩を追われの配下となっているが、信虎は少なからずこの事件と何らかの関わりをもったものと考えられる。 この事が、のちの派遣と関連があるのかは定かではない。 永禄8年()には将軍・義輝がに討たれるが発生する。 『言継卿記』においては信虎の動向が記されず不明で、一時的に駿河国に戻っていた可能性も考えられている(丸島)。 永禄10年()には在京であることが確認され、その後も在京活動を続けている。 なお、『甲陽軍鑑』や『松平記』では信虎が信玄に氏真の排除を勧めて、これを知った氏真によって追放されたとするが、実際の信虎の京都移住は信友への家督相続で隠居の身になったことによるもので、またその後も信虎が反今川氏的な行動を見せたとする証拠は存在しない(平山優はこうした事実があるならば、駿府にいた信友ら家族の身に危険が及ぶ筈であるが、そうした事実はないことからも否定できるとする)。 永禄11年()にはのが三好政権を駆逐して上洛し、を将軍に奉じている。 武田氏は信長と同盟関係にあり信虎も将軍義昭に仕候しているが、信長と同盟関係にあったのとは敵対しており、年間には信長との関係も手切となり、信玄は将軍・義昭が迎合した反信長勢力に呼応して大規模な・三河への侵攻を開始する()。 元亀4年()3月10日に義昭は信長に対して挙兵するが、義昭の動向は信長に内通したにより知らされており、信虎は義昭の命でに派遣され、反信長勢力のとともに攻撃を企図していたという。 また、平山優は甲賀に幕臣としての信虎の所領が存在していた可能性を指摘している。 義昭の挙兵は、同年4月12日に信玄が西上作戦の途上で死去し武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力は滅ぼされ義昭も京から追放されている。 甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、天正2年()に信虎は可愛がっていた三男・の居城であるに身を寄せ、勝頼とも対面したという。 同年3月5日、伊那の娘婿・(の長男)の庇護のもと、信濃高遠で死去した。 葬儀は信虎が創建した甲府ので行われ、供養は高野山成慶院で実施されている。 没後 [ ] 甲府駅北口にある「武田信虎公之銅像」(2019年5月2日撮影) になってから、躑躅ケ崎館に居館を移して甲府の町の基礎を作った人物としての観点から再評価の動きがあり、平成31年(元年・)の「甲府開府500年」に先立って前年の平成30年()に北口に武田信虎の青銅像が建立された。 では、信虎像の寄贈の他、放映「甲府を作った男・武田信虎」の配信、大泉寺での信虎報恩供養、漫画「信玄のパパ 武田信虎のほんとの話」(漫画:、協力:平山優)連載などを行っている。 人物 [ ]• 江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったという。 諫言した家臣を度々手打ちにしたと伝えられている。 、、、ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したと言われる(信虎に殺されて絶えた名跡の多くを、子の信玄が復活させている。 嫡男・晴信(信玄)に公家の三条公頼の娘を迎え、婚姻政策を展開して今川氏などの近隣勢力と同盟を結ぶなど、積極的な外交政策をとった。 この婚姻により晴信とが義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となるなど、後の武田家の外交政策にも影響を及ぼした。 息子の武田信廉によって描かれた信虎の肖像画が現存している。 晴信以外の息子との関係は良かったとも推測されている。 名刀を所有しており、今川義元に伝わる。 桶狭間の戦い後に織田信長に渡ったが、により焼失した。 後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、より徳川家康に伝わり現在に至る。 関連作品 [ ] TVドラマ• (1966年、、演:)• (1969年、、演:)• (1988年、NHK大河ドラマ、演:)• (1991年、、演:)• (1991年、、演:)• (1992年、、演:)• (2007年、NHK大河ドラマ、演:) 小説• 『室町お伽草紙』(1991年、)• 『武田修羅伝ー帰って来た信虎』(2001年、)• 『画龍点睛』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)• 虎の牙(、講談社、• ほっせん(、小説現代1月、) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 『高白斎記』は直接明応7年正月6日生まれであることを記述しているが、『大井俣神社本紀』は具体的な日付を欠くものの天文8年に信虎が42歳の厄年に息子の晴信を大井俣神社(現在の)に派遣して大規模な祈祷や修繕を行ったとするものである(逆算すると明応7年生まれとなる)。 一方の『武田信虎誕生疏』は理由は書かれていないものの天文8年の信虎の誕生日に大規模な祈祷を行ったとする内容である。 平山はこの両者の記事は無関係ではなく、天文8年正月6日に42歳の誕生日を迎えた信虎が国内の寺社に厄年の祈願をさせたことを意味しているとする。 晴信は家督相続に際して官途名を「左京太夫」から「大膳大夫」に改めており、信虎期の外交方針を転換し、信濃諏訪氏との関係を手切とし、信濃侵攻を本格化させ山内上杉氏とも敵対していく。 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。 余リニ悪行ヲ成サレ候間、カヨウニメサレ候。 サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。 山科言継は弘治2年(1556年)に駿河へ下向しており、翌弘治3年2月25日の連歌会においては信虎の子信友が参加している。 駿河時代に誕生した娘。 その下に京都で誕生した娘がおり、父の死後に武田勝頼に引き取られて武田氏滅亡時に死去したとみられ、『信長公記』に登場する「信虎京上臈のむすめ」はその娘と推定されている。 当時の勝頼は東美濃で織田信長と対峙して、2月6日に明知城を落としている。 それから1か月後には信虎が死去していることから、信虎と勝頼の対面は2月の限られた時期に限定されることになる(平山優は2月15日頃の出来事と推測する)。 ただし、高遠に禰津常安の邸宅があったとする記録はなく、高遠で死去したのが誤りなのか、禰津屋敷で死去したのが誤りなのかの可能性があるという。 出典 [ ] []• 秋山「武田信虎の生年について」『武田氏研究』(35号、2006年)• 平山(2019)、p. 18-20• 廣瀬『武田信玄伝』紙硯社、1944年• 平山(2019)、p. 14-17• 平山(2006)、p. 117• 平山(2006)、pp. 2 - 3• 平山(2019)、p. 平山(2006)、p. 58 - 59• 118• 59 - 60• 60 - 61• 119• 『高白斎記』『王代記』• 119 - 120• 120• 『武田氏と富士山』『 通史編 2中世』• 62 - 63• 長谷川幸一「戦国大名武田氏と曹洞宗-武田信虎による大泉寺開創-」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) P202-205• 123• 124• 125• 126• 125 - 126• 127• 128• 63 - 64• 『享禄元年の徳政令』『山梨県史 通史編2 中世』• 128 - 129• 121• 129• 122• 平山(2006)、p. 130• 『勝山記』• 131• 『勝山記』『高白斎記』• 『戦武』 - 4012号• 129• 小和田哲男『武田信玄』講談社、1987年• 『妙法寺記』• 平山(2019)、p. 249-263・354-356• 大木丈夫 「武田信虎悪行伝説の形成について」『武田氏研究』第49号、2013年11月15日、pp. 28-45。 平山(2019)、p. 375-379• 『証如上人日記』• 平山(2019)、p. 375-379• 平山(2019)、p. 33-34• 平山(2019)、p. 368-371• 『中世・志摩国編年実記(鳥羽市文化財調査委員編纂)』• 平山(2019)、p. 377-379・391-394• 『細川家文書』• 平山(2019)、p. 399-401• 『軍鑑』• 平山(2019)、p. 402-407• 平山(2019)、p. 407• 『武田家過去帳』• - 甲府商工会議所 参考文献 [ ]• 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い 上』学研M文庫、2002年• 平山優『武田信玄 歴史文化ライブラリー221』吉川弘文館、2006年• 編『武田信虎のすべて』(、2007年)• 「武田信虎の家督相続」• 数野雅彦「武田信虎の甲府開創」• 「武田信虎の系譜」• 柴辻俊六「武田信虎の領国経営」• 「武田信虎の信仰と宗教政策」• 「武田信虎と今川氏」• 大木丈夫「武田信虎の神社政策と在地支配」『武田氏研究』36号、2007年• 柴辻俊六「武田氏の外交戦略と領域支配」『戦国期武田氏領の形成』校倉書房、2007年• 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 関連項目 [ ]•

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