紫式部 日記。 『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

紫式部日記絵巻

紫式部 日記

紫式部といえば『源氏物語』を著したことで超絶有名ですが、他にも色々書いていて、その中には『紫式部日記』なるものもあります。 紫式部が書いた日記であるからには、彼女の普段の気持ちや考えが出ているんでしょうなぁ、と若いときに読んだことがあります。 そしたら、何だか清少納言のことをかなりボロカスに書いてあってビックリしたあの日。 『紫式部日記』とは 『紫式部日記』は紫式部によって書かれたとされている日記で、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書かれています。 中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。 史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。 自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。 また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。 引用元: 『紫式部日記』は何気なく書かれた日記ではありますが、当時の宮中の様子を当事者の目線でみることができるので、後世からしたら上等な史料になっています。 清少納言をディスる紫式部 さて、この『紫式部日記』の中で、『枕草子』で有名なあの清少納言について書かれた部分があるのですが、これがおもいっきり清少納言をこき下ろしていて面白いので是非知っておいていただきたい。 『紫式部日記』の中の清少納言 原文はこんなカンジです。 清少納言こそ、したり顏にいみじう侍りける人。 さばかり賢しだち、眞字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬこと多かり。 かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすゝみ、をかしきことも見過ぐさぬ程に、おのづからさるまじく、あだなる様にもなるに侍るべし。 そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん。 古文に強い人は、もうこれを読んだだけで「うわー」ってなるでしょう。 訳してみた 清少納言は、ホンマに得意顔で偉そうにしとる人や。 あんなに賢こそうにして漢字を書き散らしとるその程度も、よう見たらまだまだイケてへんところが多いわ。 こんなふうに人とはちゃうねんと思いたがる人は必ずよう見えへんし、先行きは悪うなってまうばっかりやから、風流ぶってばっかの人は、ひどく無風流でつまらんときでもしみじみと感動してるようにふるまい、また趣深いことを見逃さないようにしとるうちに、自然とそうあったらアカン誠実やない態度にもなるねん。 そんな誠実やない態度が身についちゃった人の将来が、どうして良うなる言えんねん。 なぜ紫式部は清少納言をこき下ろしたのか なかなか辛辣な言葉で清少納言をこき下ろしている紫式部ですが、一体なんでこんな言葉になってしまったのでしょう。 そこには『枕草子』の存在があります。 『枕草子』は清少納言が宮仕えをしていた7年間が、華やかに風流に描かれています。 そして、その中には漢詩を書いて周囲に褒められたという、清少納言自身の自慢話もありました。 清少納言はそれくらいあっけらかんとして社交的な性格だったんです。 それが(おそらく)紫式部には気に食わなかった。 『紫式部日記』を読めばわかりますが、紫式部は清少納言と正反対と言っていいくらいの内気な性格だったようです。 そんな紫式部にとって、キラキラした清少納言は嫉妬の対象でしかなかったんでしょう。 しかし、紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が宮廷を辞してから6年後ですから、2人は会ったこともないんですけどね。 でも、紫式部が出仕したときにもキラキラした『枕草子』はまだまだみんなに読まれるベストセラーでしたから、それで「なんやムカつくわー」ってひとりで日記にシコシコと悪口を書いていたわけです。 夫の悪口を言われた? 今回、これを書くにあたって色々調べているときに、面白いことがわかりました。 『日本の白歴史』というブログの、「」という記事によると、『枕草子』に、藤原宣孝という人物に書かれた部分があります。 この人は、紫式部の夫となる人です。 後に、紫式部の夫となる藤原宣孝と言う人物の服装を『あわれなるもの』という章段で語っています。 宣孝は神社に参拝する時、悪趣味でド派手な服装に身を包み、すれ違う人が二度見するほどであったと・・。 ふむ、紫式部は、もしかしたら「清少納言が過去に我が夫をバカにしたことがある」と思っていたのかもしれません。 だから「あのクソ女~我が夫を~コノヤロコノヤロ」とか言いながら日記に書いていたのかもしれませんね。 最後に 関西風に訳してサックリ書いて終わりにしようと思ったのに、調べてるうちに面白くなってきて色々書いてしまいました。 みなさんも、不用意に日記に人の悪口を書いていたら1000年後に誰かに読まれて「悪口を日記に書いて、暗いやっちゃな~」って思われることになるかもしれないので、悪口もほどほどに。

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『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

紫式部 日記

概要 [ ] 絵画様式や料紙装飾の検討から、初期、から頃の制作と推測される。 現存箇所から推測するに『紫式部日記』のうち、絵画化に適さぬ消息文や人物評を除いたほぼ全文を適宜分節して絵画化し、詞書を添えた絵巻で、当初は絵と詞書が各50~60段、全10巻程の大規模な構成であったと考えられる。 現在残っているのは、絵24段、詞書24段(内1段はによる模写)の4巻分で、全体の4割程度、『紫式部日記』全体からすると25%ほどである。 ただ、絵2図は対応する詞書がなく、逆に2段の詞書は絵が伴わない。 現存4巻は伝来や(旧)蔵者名から日記の記載順に、 蜂須賀家本、 藤田家本、 旧森川家本、 旧久松家本(日野原家本)と呼ばれている(詳細は後述)。 各巻の伝来と、旧久松家本などに付された添状や極書から判断すると、初期には現状に近い内容で構成され、1巻ずつ諸家に分蔵されていたようだ。 更にこの時期、この絵巻は『絵巻』と呼ばれ、伝称筆者は、詞書は全て同一筆者でとされた。 『栄花物語絵巻』と混同されたのは、栄花物語の「初花」の巻が『紫式部日記』を原史料として利用しているため、共通の場面を多く含むことに起因する誤りである。 また藤原信実筆の伝承も、時代的には合致するものの、信実唯一の真筆とされる『像』(蔵)と比べると画風が異なり、場面によりわずかだが画風が異なることから、優れた職業画人・宮廷絵師による工房制作だと推察される。 詞書についても、良経が創始した「後京極流」の書風ではあるものの、良経自身の遺墨と比べると詞書のほうが古風で、王朝風の流麗さ、繊細さを留めており、別筆である。 高松百香は実際の制作者は不明としつつも、九条良経の嫡男であるの依頼で制作されたとする説を唱えている。 道家は娘のをの中宮としていたが、のように天皇の外祖父になることを望んでいた道家が娘の竴子も紫式部が仕えたのように将来の天皇を生んでくれることを願って制作したとしている。 物語絵巻としては後期の『』の系統をひく、下書きの墨線をで全面的に塗り隠し、その上から細い墨で輪郭線を描き起こしたり、精緻な彩色を加えて画面を仕上げていく濃彩作絵(つくりえ)の技法である。 しかし、『源氏物語絵巻』と比べると、そのプロセスは単純化され、画面効果も明快ですっきりとしたものになっている。 も、斜投影法が多い『源氏物語絵巻』と違い、等軸測投影を現存24図の内、現存最初の場面である蜂須賀家本第一段を除くいた23図で用い、画面に鋭い緊張感と機知性を生んでいる。 (ひきめかぎはな)の顔貌形式も、細い線を重ねて丁寧に描かれた『源氏物語絵巻』に対し、弾みと切れ味ある線描に変わっており、人物の感情表現がよりはっきりと描かれている。 平安時代物語絵の表現法に、こうした新しい要素が加わったのは、時代降下による変化や崩れと云うより、作絵や引目鉤鼻と言った伝統技法を踏まえつつ、新しい時代の好みにあった別種の表現を生み出そうとする積極的な意図が働いたと見るべきであろう。 各本解説 [ ] 蜂須賀家本 [ ] 紫式部(手前)は中宮(奥)に『白氏文集』「新楽府」を講じる(右側の絵)。 蔀戸の背後で語り合う女房たち(左側の絵) に伝わった1巻、個人蔵。 絵は8場面、詞は7場面分を存するが、現状は錯簡がある。。 『住吉家鑑定控』の記録によれば、少なくともには蜂須賀家の所蔵だった。 描かれている場面は日記の前半部分、5年()9月13、15日敦成親王(後の)の産養(うぶやしない)の場面など。 寛弘5年(1008年)9月11日、一条天皇のは敦成親王を無事出産した。 当時の貴族社会では産養といって、新生児の誕生日から数えて3・5・7・9日目の夜に親族などが集まって祝宴を開き、赤子に衣服、食物などを贈る習慣があった。 蜂須賀本では9月13日の誕生第三夜と9月15日の第五夜の産養の様子が描かれる。 舞台は彰子の父・の土御門邸(当時、出産は穢れとされ、中宮の出産も里邸で行われた)。 なお、前述のように現状の巻子本には錯簡があり、上記以外の場面(本来は旧久松家本にあるべきもの)が混入している。 第一段から第五段は敦成親王の産養にかかわるもので、絵の直前にそれぞれの絵に該当する詞書を伴っている。 この巻には錯簡がみられ、第三段の絵の直後には2面の絵が、間に詞書を挟まずに連続して継がれている。 第五段の絵の次には第六段と第七段の詞書のみが連続して継がれている。 第六段の詞書は、紫式部の中宮に対する『白氏文集』進講に関わるもので、これに該当する絵は第三段の次に継がれている。 第七段の詞は、五節の舞姫に関する内容で、現状ではこれに該当する絵はない。 第八段は絵のみで、これに該当する詞書は現存の絵巻中にはない。 第四段の直前にある絵は、寛弘5年12月29日に紫式部が参内した時のエピソードにかかわるものとみられ、これに該当する詞書は旧久松家本の第二段にある。 第五段 敦成親王誕生第五夜の産養の日、紫式部は屏風を押し開け、隣室に控える夜居の僧に中宮御前の様子を見せる 藤田家本 [ ] 蔵、1巻、絵・詞書各5段、。 (大正6年)までに伝来。 言い伝えによると江戸時代初めからの拝領品だという。 秋元家の美術品売立で藤田家が落札し、のち美術館のコレクションに加えられた。 内容は日記の前半、蜂須賀家本に続く場面であり、寛弘5年9月15日・17日の敦成親王誕生第五夜と第七夜の産養の場面が中心。 第5段は10月16日の一条天皇の土御門邸への行幸の日の様子。 第一段 - 9月15日、敦成親王誕生第五夜の産養の後の賜禄。 第二段 - 9月16日、十六夜(いざよい)の月の夜の舟遊び。 第三段 - 同夜、土御門邸に内裏の女房たちが祝いに駆け付ける。 邸の北門付近に並ぶ牛車を描く。 第四段 - 9月17日、公(朝廷)が主催する、誕生第七夜の産養。 第五段 - 10月16日、一条天皇の土御門邸行幸当日の朝、池に浮かべた龍頭鷁首(りょうとうげきす)の船を見る道長。 第五段の絵と詞は別々のものである。 第五巻の絵に照応する詞の部分は、この一巻が秋元家の所蔵であった時代に切り離されて別途保管されていたが、関東大震災で焼失した。 現在は当該詞書の模本(田中親美模)のみが残っている。 現状、第五段の絵の直前にある詞は、「一条天皇の土御門邸行幸の近づくある日、(紫式部は)もの思いにふけり、池の水鳥に思いをよせる歌を詠んだ」という内容で、現存する絵巻にはこの詞に相応する絵はない。 藤田本より• 旧森川家本第五段(個人蔵) 几帳のかげに隠れていたところを道長に見つかり、祝いの和歌を詠むように迫られる紫式部と宰相の君。 詞書5段、絵5段。 元は(大正9年)の森川勘一郎(如春庵)が発見した巻子本1巻。 藤田本に続く、行幸翌日の10月17日の場面と、11月1日の敦成親王の五十日(いか、誕生50日目の祝儀)の日の様子を描く。 伝来は不明だが、絵のみがの『丹鶴叢書』壬子帙に旧久松家本と共に木版で収められており、西国の大名家(か)が秘蔵していたとみられる。 森川は、手持ちの古美術コレクションを整理してこの絵巻を購入したという。 この旧森川家本は3度にわたり現状変更(分割)が行われている。 最初は(昭和7年)で、所有者の森川勘一郎は、当時の大収集家であった(鈍翁)に絵巻を売却した。 この際、益田は巻子最後の絵と詞書各1段分を切断し、森川の元に残した(現在は軸装、個人蔵、重要文化財)。 しばしば益田の美術関係における相談役をしていた田中親美はこの処置に不賛成だったが、聞き届けられなかった。 2度めは翌1933年(昭和8年)、生誕を祝し宮家を招いてを催した時である。 益田は、この茶会の掛け物にするため、生誕祝いの席にふさわしい旧森川家本の第三段、寛弘5年11月1日夜、敦成親王誕生50日の祝の場面を切断した(別の個人収集家を経て、現在は蔵、重要文化財。 その翌年の1934年(昭和9年)、益田は残った3段分を、額装6面(絵・詞各3面)に改装する。 この6面は戦後、別の個人所蔵家を経て、の所蔵となった(国宝)。 各段の内容は以下のとおり。 第一段(現・五島美術館本第一段) - 行幸翌日の10月17日、中宮権亮実成と中宮大夫斉信が紫式部らのいる部屋を訪れる。 第二段(現・五島美術館本第二段) - 11月1日の敦成親王の五十日(いか)の祝儀。 第三段(東京国立博物館蔵) - 同夜、親王の外祖父道長が五十日の餅を差し上げる。 第四段(現・五島美術館本第三段) - 同夜、祝宴の後、酔って女房たちにたわむれる貴人たち。 第五段(個人蔵) - 同夜、几帳のかげに隠れていたところを道長に見つかり、祝いの和歌を詠むように迫られる紫式部と宰相の君。 (同左 詞書) 旧久松家本 [ ] 詞書6段、絵6段、重要文化財、個人蔵(東京国立博物館)。 久松松平家は、明治になって先祖の姓である久松に戻したためこの名がある。 日記の後半部分と末尾を絵画化している。 後半3段は、寛弘7年(1010年)正月15日の敦良親王(後の)の五十日(いか、誕生50日目の祝儀)の日の様子。 前半3段はこれとは異なるエピソードが描かれている。 第一段 - 賀茂臨時祭奉幣使となった(道長二男)の晴れ姿。 第二段 - 船上の管絃の遊び。 第三段 - 道長が紫式部の局を訪れる。 第四段 - 寛弘7年正月15日、敦良親王の五十日の祝儀、食物を運ぶ貴人たち。 第五段 - 同日の祝儀終了後、巻き上げられた御簾と2人の女房。 第六段 - 同日の祝儀終了後、高欄に倚る3人の貴人。 第二段の絵と詞は内容が照応せず、別々のものである。 第二段の絵について、『角川 絵巻物総覧』(解説:佐野みどり)は、寛弘6年9月11日、中宮の安産祈願のために道長の土御門邸で行われた仏事後の管絃の遊びを描いたものとする。 一方、『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』(解説:)は、寛弘5年5月22日、土御門邸の新御堂で行われた阿弥陀懺法の後のこととする。 第二段の直前の詞書は(寛弘5年)師走29日の参内について述べたもので、前後の絵と関係がなく、本来は蜂須賀本の第四段の前にある絵と組み合うものである。 第四段の絵について、小松茂美は、五節舞に関連づけ、寛弘5年11月21日の五節の舞姫の「御前の試み」(清涼殿で天皇に舞を見せる行事)の日の五節所(舞姫の控え所)を描いたものかと推定している。 旧久松家本より• 第四段 寛弘7年正月15日、敦良親王の五十日の祝儀、食物を運ぶ貴人たち。 参考文献 [ ]• 『週刊朝日百科 日本の国宝』92号、、1998年。 小松茂美編『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』、中央公論社、1987• 梅津次郎監修、宮次男・真保亨・吉田友之編『角川 絵巻物総覧』、角川書店、1995(紫式部日記絵巻の項の筆者は佐野みどり) 展覧会図録• 『特別展「紫式部日記絵巻と王朝の美」』発行〈五島美術館展覧会図録 No. 105〉、1985年。 五島美術館学芸部編『鈍翁の眼 益田鈍翁の美の世界』五島美術館、1998年。 発行・編集『開館65週年記念 源氏物語一〇〇〇年 特別展 国宝 紫式部日記絵巻と雅の世界』、2000年。 「如春庵森川勘一郎旧蔵の絵画」『森川如春庵の世界』・、名古屋市博物館、2008年。 脚注 [ ]• 国宝・重要文化財の指定名称は「紫式部日記絵詞」である。 高松百香「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) P195-197• 『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』、pp. 2 - 23および『角川 絵巻物総覧』、pp. 385 — 386• 『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』、pp. 24 - 41および『角川 絵巻物総覧』、p. 386• 絵巻の発見・入手の時期については、前年の1919年(大正8年)頃とする資料もある( pp. 225, 277)。 74; p. 242; (樋口、2008)、pp. 224 - 226; 、p. 10 - 40 - 10 - 41• 『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』、pp. 44 - 59, 81 - 83および『角川 絵巻物総覧』、p. 386• 『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』、pp. 60 - 80および『角川 絵巻物総覧』、pp. 386 - 387 外部リンク [ ]•

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紫式部日記『日本紀の御局』現代語訳(1)

紫式部 日記

2-3 渋谷栄一校訂(C) 紫式部日記(黒川本) 第一部 敦成親王誕生記 《第一章 寛弘五年(一〇〇八)秋の記》 【一 土御門殿邸の初秋の様子】 秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。 池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。 やうやう凉しき風の、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。 御前にも、近うさぶらふ人びとはかなき物語するをきこしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさまなどの、いとさらなる事なれど、憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれと、現し心をばひき違へ、たとしへなくよろづかつはあやし。 【二 五壇の御修法】 まだ夜深きほどの月さし曇り、木の下をぐらきに、 「御格子参りなばや。 」 「女官は、今までさぶらはじ。 」 「蔵人参れ。 」 など言ひしろふほどに、後夜の鉦打ち驚かして、五壇の御修法の時始めつ。 われもわれもと、うち上げたる伴僧の声々、遠く近く、聞きわたされたるほど、おどろおどろしく尊し。 観音院の僧正、東の対より、二十人の伴僧を率ゐて、御加持参りたまふ足音、渡殿の橋のとどろとどろと踏み鳴らさるるさへぞ、ことごとのけはひには似ぬ。 法住寺の座主は馬場の御殿、僧都は文殿などに、うち連れたる浄衣姿にて、ゆゑゆゑしき唐橋どもを渡りつつ、木の間をわけて帰り入るほども、遥かに見やらるる心地してあはれなり。 、大威徳を敬ひて、腰をかがめたり。 人びと参りつれば、夜も明けぬ。 【三 道長との女郎花の歌の贈答】 渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうち霧りたる朝の露もまだ落ちぬに、殿歩かせたまひて、御隨身召して、遣水払はせたまふ。 橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせたまひて、几帳の上よりさし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知らるれば、 「これ、遅くては悪ろからむ。 」 とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。 女郎花盛りの色を見るからに 露の分きける身こそ知らるれ(一) 「あな、疾。 」 と、ほほ笑みて、硯召し出づ。 白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ(二) 【四 殿の子息三位の君頼通の姿】 しめやかなる夕暮に、宰相の君と二人、物語してゐたるに、殿の簾のつま引き上げてゐたまふ。 年のほどよりはいと大人しく、心にくきさまして、 「人はなほ心ばへこそ、難きものなめれ。 」 など、世の物語、しめじめとしておはするけはひ、幼しと人のあなづりきこゆるこそ悪しけれと、恥づかしげに見ゆ。 うちとけぬほどにて、 「多かる野辺に」 とうち誦じて、立ちたまひにしさまこそ、物語にほめたる男の心地しはべりしか。 かばかりなる事の、うち思ひ出でらるるもあり、その折はをかしきことの、過ぎぬれば忘るるもあるは、いかなるぞ。 【五 碁の負わざ】 播磨守、碁の負けわざしける日、あからさまにまかでて、後にぞ御盤のさまなど見たまへしかば、華足などゆゑゆゑしくして、洲浜のほとりの水に書き混ぜたり。 紀伊の国の白良の浜に拾ふてふ この石こそは巌ともなれ(三) 扇どもも、をかしきを、そのころは人びと持たり。 【六 八月二十日過ぎの宿直の様子】 八月二十余日のほどよりは、上達部、殿上人ども、さるべきはみな宿直がちにて、橋の上、対の簀子などに、みなうたた寝をしつつ、はかなう遊び明かす。 琴、笛の音などには、たどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様歌どもも、所につけてはをかしかりけり。 宮の大夫、左の宰相中将、兵衛の督、美濃の少将などして、遊びたまふ夜もあり。 わざとの御遊びは、殿おぼすやうやあらむ、せさせたまはず。 年ごろ里居したる人びとの、中絶えを思ひ起こしつつ、參り集ふけはひ騒がしうて、そのころはしめやかなることなし。 【七 八月二十六日、弁宰相の君の昼寝姿】 二十六日、御薫物合せ果てて、人びとにも配らせたまふ。 まろがしゐたる人びと、あまた集ひゐたり。 上より下るる道に、弁の宰相の君の戸口をさし覗きたれば、昼寝したまへるほどなりけり。 萩、紫苑、色々の衣に、濃きが打ち目、心ことなるを上に着て、顏は引き入れて、硯の筥に枕して臥したまへる額つき、いとらうたげになまめかし。 絵に描きたるものの姫君の心地すれば、口おほひを引きやりて、 「物語の女の心地もしたまへるかな。 」 といふに、見上げて、 「もの狂ほしの御さまや。 寝たる人をかすものか。 」 とて、すこし起き上がりたまへる顏の、うち赤みたまへるなど、こまかにをかしうこそはべりしか。 大方もよき人の、折からに、又こよくなくまさるわざなりけり。 【八 九月九日、菊の綿の歌】 九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、 「これ、殿の上の、とり分きて。 『いとよう、老い拭ひ捨てたまへ』と、のたまはせつる。 」 とあれば、 菊の露若ゆばかりに袖触れて 花のあるじに千代は譲らむ(四) とて、返したてまつらむとするほどに、「あなたに帰り渡らせたまひぬ」とあれば、用なさにとどめつ。 【九 九月九日の夜、御前にて】 その夜さり、御前に参りたれば、月をかしきほどにて、端に、御簾の下より裳の裾など、ほころび出づるほどほどに、小少将の君、大納言の君などさぶらひたまふ。 御火取りに、ひと日の薫物取う出て、試みさせたまふ。 御前のありさまのをかしさ、蔦の色の心もとなきなど、口々聞こえさするに、例よりも悩ましき御けしきにおはしませば、御加持どもも参るかたなり、騒がしき心地して入りぬ。 人の呼べば局に下りて、しばしと思ひしかど寝にけり。 夜中ばかりより騒ぎたちてののしる。 【一〇 九月十日、産室に移る】 十日の、まだほのぼのとするに、御しつらひ変はる。 白き御帳に移らせたまふ。 殿よりはじめたてまつりて、君達、四位五位どもたち騒ぎて、御帳の帷子かけ、御座ども持てちがふほど、いと騒がし。 日一日、いと心もとなげに起き臥し暮らさせたまひつ。 御もののけども駆り移し、限りなく騒ぎののしる。 月ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をば、さらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなく参り集ひ、三世の仏もいかに翔りたまふらむと思ひやらる。 陰陽師とて、世にあるかぎり召し集めて、八百万の神も、耳ふりたてぬはあらじと見えきこゆ。 御誦経の使、立ち騒ぎ暮らし、その夜も明けぬ。 御帳の東面は、内裏の女房参り集ひてさぶらふ。 西には、御もののけ移りたる人びと、御屏風一よろひを引きには几帳を立てつつ、験者あづかりあづかりののしりゐたり。 南には、やむごとなき僧正、僧都、重りゐて、不動尊の生きたまへるかたちをも呼び出で現はしつべう、頼みみ恨みみ、声みな涸れわたりにたる、いといみじう聞こゆ。 北の御障子と御帳とのはさま、いと狹きほどに、四十余人ぞ、後に数ふればゐたりける。 いささかみじろぎもせられず、気あがりてものぞおぼえぬや。 今、里より参る人びとは、なかなかゐこめられず。 裳の裾、衣の袖、ゆくらむかたも知らず、さるべきおとななどは、忍びて泣きまどふ。 【一一 九月十一日の暁、加持祈祷の様子】 十一日の北の御障子、二間はなちて、廂に移らせたまふ。 御簾などもえかけあへねば、御几帳をおし重ねておはします。 僧正、都、法務僧都などさぶらひて加持まゐる。 院源僧都、昨日書かせたまひし御願書に、いみじきことども読み上げ続けたる言の葉のあはれに尊く、頼もしげなること限りなきに、殿のうち添へて、仏念じきこえたまふほどの頼もしく、さりともとは思ひながら、いみじう悲しきに、みな人涙をえおし入れず、 「ゆゆしう、かうな。 」 など、かたみに言ひながらぞ、えせきあへざりける。 人げ多く混みては、いとど御心地も苦しうおはしますらむとて、南、東面に出ださせたまうて、さるべきかぎり、この二間のもとにはさぶらふ。 殿の上、内蔵の命婦、御几帳の内に、仁和寺の僧都の君、三井寺の内供の君も召し入れたり。 殿のよろづにののしらせたまふ御声に、僧も消たれて音せぬやうなり。 いまゐたる人びと、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、弁の内侍、中務の君、大輔の命婦、大式部のおもと、殿の宣旨よ。 いと年経たる人びとのかぎりにて、心を惑はしたるけしきどもの、いとことわりなるに、まだ見たてまつりなるるほどなけれど、類なくいみじと、心一つにおぼゆ。 また、この後ろの際に立てたる几帳の外に、尚侍の中務の乳母、姫君の少納言の乳母、いと姫君の小式部の乳母などおし入り来て、御帳二つが後ろの細道を、え人も通らず。 行きちがひみじろく人びとは、その顏なども見分かれず。 殿の君達、宰相中将、四位の少将などをばさらにもいはず、左宰相中将、宮の大夫など、例はけ遠き人びとさへ、御几帳の上よりともすれば覗きつつ、腫れたる目どもを見ゆるも、よろづの恥忘れたり。 頂きにはうちまきを雪のやうに降りかかり、おししぼみたる衣のいかに見苦しかりけむと、後にぞをかしき。 【一二 無事出産】 御頂きの御髮下ろしたてまつり、御忌む事受けさせたてまつりたまふほど、くれ惑ひたる心地に、こはいかなることと、あさましう悲しきに、平らかにせさせたまひて、後のことまだしきほど、さばかり広き母屋、南の廂、高欄のほどまで立ちこみたる僧も俗も、いま一よりとよみて額をつく。 東面なる人びとは、殿上人にまじりたるやうにて、小中将の君の、左の頭中将に見合せて、あきれたりしさまを、後にぞ人ごと言ひ出でて笑ふ。 化粧などのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顏づくりしたりけるを、泣き腫れ、涙にところどころ濡れそこなはれて、あさましう、その人となむ見えざりし。 宰相の君の、顏変はりしたまへるさまなどこそ、いとめづらかにはべりしか。 まして、いかなりけむ。 されど、その際に見し人のありさまの、かたみにおぼえざりしなむ、かしこかりし。 今とせさせたまふほど、御もののけのねたみののしる声などのむくつけさよ。 源の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人にはいふ人、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局には闍梨を預けたれば、もののけに引き倒されて、いといとほしかりければ、念覚阿闍梨を召し加へてぞののしる。 阿闍梨の験の薄きにあらず、御もののけのいみじうこはきなりけり。 宰相の君の叡効を添へたるに、夜一夜ののしり明かして、声も涸れにけり。 御もののけ移れと召し出でたる人びとも、みな移らで騒がれけり。 【一三 午後、安堵と男御子誕生の慶び】 午の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。 平らかにおはしますうれしさの類もなきに、男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ。 昨日しほれ暮らし、今朝のほど、秋霧におぼほれつる女房など、みな立ちあかれつつ休む。 御前には、うちねびたる人びとの、かかる折節つきづきしきさぶらふ。 殿も上も、あなたに渡らせたまひて、月ごろ、御修法、読経にさぶらひ、昨日今日召しにて参り集ひつる僧の布施賜ひ、医師、陰陽師など、道々のしるし現れたる、禄賜はせ、内には御湯殿の儀式など、かねてまうけさせたまふべし。 人の局々には、大きやかなる袋、包ども持てちがひ、唐衣の縫物、裳、ひき結び、螺鈿縫物、けしからぬまでして、ひき隠し、「扇を持て来ぬかな」など、言ひ交しつつ化粧じつくろふ。 【一四 外祖父道長の満足げな様子】 例の、渡殿より見やれば、妻戸の前に、宮の大夫、春宮の大夫など、さらぬ上達部もあまたさぶらひたまふ。 殿、出でさせたまひて、日ごろ埋もれつる遣水つくろはせたまふ。 人びとの御けしきども心地よげなり。 心の内に思ふことあらむ人も、ただ今は紛れぬべき世のけはひなるうちにも、宮の大夫、ことさらにも笑みほこりたまはねど、人よりまさるうれしさの、おのづから色に出づるぞことわりなる。 右の宰相中将は権中納言とたはぶれして、対の簀子にゐたまへり。 【一五 内裏より御佩刀参る】 内裏より御佩刀もて参れる頭中将頼定、今日奉幣使、帰るほど、昇るまじければ、立ちながらぞ、平らかにおはします御ありさま奏せさせたまふ。 禄なども賜ひける、そのことは見ず。 御臍の緒は殿の上。 御乳付は橘の三位御乳母、もとよりさぶらひ、むつましう心よいかたとて、大左衛門のおもと仕うまつる。 備中守朝臣のむすめ、蔵人の弁の妻。 【一六 御湯殿の儀式】 御湯殿は酉の時とか。 火ともして、宮のしもべ、緑の衣の上に白き湯まゐる。 その桶、据ゑたる台など、みな白きおほひしたり。 尾張守知光、宮の侍のる仲信御簾の参る。 水仕二人、清子の命婦、播磨、取り次ぎてうめつつ、女房二人、大木工、右馬、汲みわたして、御瓮十六にあまれば薄物の表着、かとりの裳、唐衣、釵子さして、白き元結したり。 えてをかしく見ゆ。 御湯殿は、宰相の君、大納言の君湯巻姿どもの、例ならずさまことにをかしげなり。 宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀、小少将の君、虎の頭、宮の内侍とりて御先に参る。 唐衣は松の実の紋、裳は海賦を織りて、大海の摺目にかたどれり。 腰は薄物、唐草を縫ひたり。 少将の君は、秋の草むら、蝶、鳥などを、白銀して作り輝かしたり。 織物は限りありて、人の心にしくべいやうのなければ、腰ばかりを例に違へるなめり。 殿の君達二ところ、源少将など、投げののしり、われ高ううち鳴らさむと争ひ騒ぐ。 僧都護身にさぶらひたまふ、頭にも目にも当たるべければ、捧げて、若き人に笑はる。 文読む博士、蔵人弁広業、高欄のもとに立ちて、『史記』の一巻を読む。 弦打ち二十人、五位十人、六位十人、二列に立ちわたれり。 夜さりの御湯殿とても、様ばかりしきりてまゐる。 儀式同じ。 御文の博士ばかりや替はりけむ。 伊勢守致時の博士とか。 例の『孝経』なるべし。 又挙周は、『史記』文帝の巻をぞ読むなりし。 七日のほど、替はる替はる。 【一七 九月十二日、女房たちの服装】 よろづの物のくもりなく白き御前に、人の様態、色合ひなどさへ、掲焉に現れたるを見わたすに、よき墨絵に髮どもを生ほしたるやうに見ゆ。 いとどものはしたなくて、輝かしき心地すれば、昼はをさをささし出でず。 のどやかにて、東の対の局より参う上る人びとを見れば、色聴されたるは、織物の唐衣、同じ袿どもなれば、なかなか麗しくて、心々も見えず。 聴されぬ人も、少し大人びたるは、かたはらいたかるべきことはとて、ただえならぬ三重五重の袿に、表着は織物、無紋の唐衣すくよかにして、襲ねには綾、薄物をしたる人もあり。 扇など、みめにはおどろおどろしく輝やかさで、由なからぬさまにしたり。 心ばへある本文うち書きなどして、言ひ合はせたるやうなるも、心々と思ひしかども、齢のほど同じまちのは、をかしと見かはしたり。 人の心の、思ひおくれぬけしきぞ、あらはに見えける。 裳、唐衣の縫物をばさることにて、袖口に置き口をし、裳の縫ひ目に白銀の糸を伏せ組みのやうにし、箔を飾りて、綾の紋にすゑ、扇どものさまなどは、ただ、雪深き山を、月の明かきに見わたしたる心地しつつ、きらきらとそこはかと見わたされず、鏡をかけたるやうなり。 【一八 九月十三日夜、三日の中宮職主催の御産養】 三日にならせたまふ夜は、宮司、大夫よりはじめて御産養仕うまつる。 右衛門督御前の事、沈の懸盤、白銀の御皿など、詳しくは見ず。 源中納言藤宰相御衣、御襁褓、衣筥の折立、入帷子、包、覆、下机など、同じことの、同じれど、しざま、人の心々見えつつし尽くしたり。 、おほかたのことどもや仕うまつるらむ。 東の対の西の廂は、上達部の座、北を上にて二行に、南の廂に、殿上人の座は西を上なり。 白き綾の母屋の御簾に添へて、外ざまに立てわたしたり。 【一九 九月十五日夜、五日の道長主催の御産養】 五日の夜は、殿の御産養。 十五日の月曇りなくおもしろきに、池の汀近う、篝火木の下に灯しつつ、屯食ども立てわたす。 あやしき賤の男のさへづりありくけしきどもまで、色ふしに立ち顔なり。 主殿が立ちわたれるこたらず、昼のやうなるに、ここかしこの木のる上達部の随身などやうの者どもさへ、おのがじし語らふべかめることは、かかる世の中のでおはしましたることを、陰にいつしかと思ひしも、および顔にち笑み、心地よげなるや。 のうちの人は、何ばかりの数にしもあらぬ五位どもなども、そこはかとなくちかがめて行きちがひ、いそがしげなるさまして、時にあひ顔なり。 御膳まゐるとて、女房八人、一つ色にさうぞきて、髪上げ、白き元結して、白き御盤づきまゐる。 今宵の御まかなひは宮の内侍、いとものものしく、あざやかなる元結ばえしたる髪の下がりば、つねよりもあらまほしきさまして、扇にはづれたるかたはらめなど、いときよげにはべりしかな。

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