皇族 逮捕。 万が一、皇族の方の犯罪は??

皇族の「人権」どこまで? 目につく「不自由さ」:朝日新聞デジタル

皇族 逮捕

(平成15年)、にて 続柄 第1男子 全名 寬仁(ともひと) 身位 敬称 お印 出生 ・ 三笠宮御假寓所 死去 2012-06-06 (66歳没) ・ 附属 埋葬 ・東京都大塚五丁目 配偶者 (麻生信子) 子女 父親 母親 栄典 役職 友愛十字会 ありのまま舎総裁 総裁 総裁 総裁 名誉総裁 総裁 総裁 総裁 最高顧問 他多数 寬仁親王(ともひとしんのう、〈21年〉 - 〈24年〉)は、の。 は (かしわ)。 との第1男子。 (第126代)は従甥、(第125代天皇・)は従兄、(第92代)は義兄(妃・信子の兄)にあたる。 姉に、弟にと、妹にがいる。 生前の(寬仁親王邸)は、元赤坂二丁目の内にあった。 没後の(平成25年)より、旧寬仁親王邸は「」(みかさのみやひがしてい)と称されている。 お印に選ばれた柏 (21年)、の三笠宮御假寓所(別荘)にて、との第一男子(3男2女のうち第2子)として誕生した。 伯父にあたるにとっては、初めて授かった甥でもあった。 幼い頃は、姉のとともにに特に可愛がられた。 幼稚園、、を経てへ入学した。 父の三笠宮崇仁親王の教育方針は「放任主義」で、「子供の頃は『勉強をしろ』と言われたことが無かった」という。 初等科では他の一般児童とは異なる待遇で、登下校の際のが特別室に設置され、「トモちゃん」と口にした友人は、教師から「何事だ!宮様と呼べ!」と怒鳴られた。 学校では、等のに熱中し、特に小学校4学年からやり始めたスキーは、高校2年次に1級を取得した。 一方、「学業の成績は『メチャクチャに悪かった』」とのこと。 学習院高等科に入り、3年次には団長を務めた。 応援団での威厳をつけるため、ヒゲは2年次に鼻の下だけ、3年次に顎ヒゲも伸ばし始めた。 なお、当時の学習院高等科にはヒゲに関するはなかった。 (昭和52年)放送のテレビ番組『』に於いてゲスト出演した自身の発言によると、「高校生になるとのように振る舞い、高校1年生あたりから、に至ってはさらに若い頃から始めていた」という。 (昭和41年)1月、成年式に伴いに叙され、を授けられる。 同年9月15日に、愛車のGT-Bを運転して、のを運転していた寛仁親王は、しようとしてをはねた。 オートバイを運転していた住み込み店員が左で全治半年の重傷、後部座席に乗っていた少年も軽症を負った。 を起こした場合は「の運転を辞める」と母親の三笠宮妃百合子と約束しており、をに返納した。 (昭和43年)、政治学科を卒業した()。 同年4月から(昭和45年)8月までの2年間半、のモードリン・コレッジに。 留学は、父の崇仁親王や義伯母のの勧めによった。 モードリンは、伯父の一人であるが在籍した学寮でもある。 留学当初のは「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥー(How do you do? )」と「サンキュー・ベリー・マッチ(Thank you very much. )」しか理解できなかったが、語学学校「Godmer House School」に3ヶ月通い、コレッジに移って後は、週に一度のを「十あるとしたら、六が七くらいの力で」済ませ「残りは、人と付合うことに費やした」という。 保証人はのジョン・ケズウィックであり、妻の実家であるも世話を焼いた。 イギリス滞在中にはに招かれで、皇太子、王女の臨席で対面している。 欧州滞在中のうち6ヶ月はとでスキーをしていた。 1970年(昭和45年)1月5日の24歳のに、ロンドンの駐英日本大使公邸においてパーティーを開いた。 「(自身の曽祖父にもあたる)に(容姿が)似ているから服を着ろ」と友人に促され、父(であった)から騎兵将校の軍服を送ってもらい、これを着た。 日本の一部新聞がこれを批判的に報じた。 また、駐車違反の罰金の督促を受けても、これを支払わなかったため、皇族である寬仁親王にが出された。 学位を取得せずに日本に帰国し、1970年(昭和45年)から(昭和47年)には、組織委員会事務局職員として勤務しに居住した。 初任給は、41,700だった。 (昭和50年)には、世界海洋青少年大会事務局に勤務した。 伯父のの影響を受けて、早くからやスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。 特にが、への取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導に当たり、「ありのまま舎」(にある系の)の活動に見られるように、施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動に取り組んだ。 留学を機に、国際親善にも強い関心を持ち、名誉総裁を始め、諸外国との交際にも意欲的に取り組んだ。 皇族としては表に出る機会が多く、は、寬仁親王を暗殺者リストに入れて、行きつけの、、等を調べ上げており、身辺警備が強化された。 皇族としての制約の多さに苛立ち、(昭和57年)に「皇籍離脱発言」をして、世間を騒がせた。 これについてはにおいて、「国民の皇室に対する期待が、どのようなものなのかを十分に把握して、その期待に沿うように努力するように望む」と述べた。 (24年)15時35分、のため。 66歳没。 薨去時のは、第6位だった。 病歴 [ ] から、、をはじめとする疾病に悩まされていた。 (平成3年)1月にのを行った。 (平成7年)までに舌の付け根・首のリンパ節・喉など6回のガン手術を行い 、その闘病経験を(平成11年)に闘病記『癌を語る』として出版した。 (平成18年)には洗顔中に転倒し顎をした。 またにより入退院を繰り返していた((平成22年)、5度目の入院)。 入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、いわゆる「ふてくされて出てこないのか」発言など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せていた。 当初入院は1か月の予定であったが、3週間で退院した。 同年には米誌とインタビューを行えるほどに回復した姿を見せた。 しかし、が見つかったことから、(平成20年)3月に再び手術を受けた。 この時は声を残す方向で手術が行われたが、飲み込みが上手くいかず、4月にはを発症し再入院した。 この際、喉の一部を塞ぐ手術を行ったが、それが原因でを震動させる空気の出口が塞がれ、声を失った。 公務の際には、を首に当てて会話を行っていた。 2010年(平成22年)にはの治療で入院、更に9月の定期検診で新たな咽の癌が発見されたことからにを受けることとなった。 (平成23年)2月には肺炎で入院。 同年には中咽頭上皮に見つかった癌の切除手術のため入院している。 1991年(平成3年)以降、癌に関連する手術や治療を受けるのはこれで14回目であった。 (平成24年)1月には咽喉にが見つかり、附属杏雲堂病院(当時)にて、腫瘍と周辺のリンパ節の摘出、及び欠損部への腹部からの移植処置を伴う手術を7時間半に亘り受けた。 術後に細胞組織検査を行った結果、寬仁親王の病状が『咽喉癌の再発と見られる』と医師団から発表された。 3月には、食事の障害になっていた喉の軟骨の除去手術を受けた。 同年6月、喉から2回出血し、の必要性があった事が、明らかになった。 翌、宮内庁は腎臓や肺、肝臓の機能が低下状態にあり、意識レベルが低下していると発表した。 2012年(平成24年)6月6日15時35分、入院先ののにて、66歳で。 同日の宮内庁の会見で、死因はであると発表された。 1991年(平成3年)1月の癌発見から21年間。 癌の手術や治療は計16回を数えた。 宮号の有無と表記 [ ] 存命時は、結婚を機に独立の生計を立てていたものの、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれを継承する者とされていたことから、は賜らなかった。 同様の誤用は時代における皇位継承権第2位のをはじめ他の皇族に対する報道にも見られる。 (平成13年)12月に行われた長女(第1子)ののに伴う記者会見においてが彬子女王を「 三笠宮寛仁さまの長女彬子さま」と記載したことに関し、親王は自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌の「総裁コラム」において、「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寛仁親王』であり、彬子は身位が『』で、敬称は『殿下』でなければなりません。 従って正しくは、『寛仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……』となるべき」と記した。 また、柏朋会の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ、「『三笠宮寛仁親王』でなく『寛仁親王』が正しい」と書いている。 なお、政府による正式表記(告示や告示など)では寬仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載されるでの表記は必ず「寛仁親王」(妃の場合は「寛仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。 しかしマスメディアでは「わかりやすさ」を図るために「(昭和天皇の弟の崇仁親王の創設した)三笠宮 家の寬仁さま」と報道されることがある。 なお、三笠宮本家からは独立の生計を営んでおり寬仁親王が当主を務める「 寬仁親王家」(ともひとしんのうけ)として他の宮家に准ずる扱いを受けていた。 親王の薨去に伴い、当主不在の状態が続いていたが、(平成25年)に宮内庁は、「薨去にさかのぼり、親王家を廃止する」と発表した。 従来の慣例では、が当主を継承することになるが、長年別居が続いており、親王の死後も2人の娘たちと同居していなかった。 寬仁親王邸の名称も、「三笠宮東邸」と改称された。 逸話 [ ] 著述・発言に関するもの [ ] 、高輪プリンスホテルでの講演にて• 各地での講演活動や・などでの著述活動にも積極的であり、などをまとめた著書も複数出版している。 独身時代の(昭和51年)に『』()、(昭和52年)には『』()といったに出演した他、(昭和55年)に結婚した後には、と共にテレビのバラエティー番組に出演したこともある。 (平成19年)10月にはのインタビューに答え、「時代にはに乗って通学した」「の生徒に因縁をつけられることもあった」などと青春時代を回想した。 「彼らは学習院の制服を見つけると、いつも襲いかかってきたものでした」との発言も記録されている。 同インタビューにおいてはに対しても触れ、「手紙に返答していれば、いくらかの進展はあったのではないかと思うが、意見を述べたことに対しての礼を述べる返事しか来なかった」とに発言について説明するよう長文の手紙を送ったものの、礼状程度の返事しか返ってこず、ために事の進展がなかったという趣旨の発言をしている。 またを公表した事に触れ「皇室はの塊」と述べた。 1975年(昭和50年)10月28日には午前1時から2時間、の「」でのを務めた。 スタジオで、横に番組ディレクターが座り次々に造るのを飲みながら、皇室、自身の身の上話、の話などをを交え、2時間に渡り喋った。 放送を聞いていた弟の憲仁からは、「二時以降は呂律が回っていなかった」と指摘された。 放送の中で、自身の皇位継承順位が7位であるという数字を気に入っているから、「(当時)はもうこれ以上男子を産まないでくれ」と口にした。 から、職員は番組について何と言っていたのかと尋ねられて、「別にもう…諦めてるんでしょうな、おれのことについては」と答えている。 公的活動に関するもの [ ] 、閉会式にて• 他の皇族同様、各団体の職や職に多数就任している。 友愛十字会、ありのまま舎、公益財団法人 新技術開発財団、などのやなど、医療・福祉に関する団体にて役員を務めることが多い。 スポーツにも造詣が深く、、、日本学生氷上競技連盟などスポーツ関連の団体の役員も多く務めており 、、、のなどの大会では自身の名を冠した優勝杯・牌が贈られている。 また、(昭和62年)に創設され、で毎年開催している『岩木山スキーマラソン大会』では大会総裁に就任したのみならず、自らコースセッティングの指揮を執り、かつ選手としても出場するなど運営面に於いても熱心に取り組まれた。 (昭和56年)11月、夫妻でへの出席を希望したが、第二次世界大戦以後皇族は自衛隊と距離を取り続けていた(当時)ため大きな波紋を呼んだ。 音楽まつりは・と異なり、一般人へのPRが主目的であることから、賓客ではなく特別招待者の待遇で準備が行われた。 人物に関するもの [ ]• の名門クラブにおいて、寛仁親王が「御東場(おとうば。 宮中用語で)が汚れていたんで拭いといたよ」と云ったとオーナーマダム・加瀬文恵が雑誌『プラチナ・スタイル』取材に語った。 次女・瑶子女王は、「寛仁親王の性格は細か過ぎるところがある」と述べている。 皇位継承問題に対して [ ] 女系天皇容認論に対する見解 [ ] 時代に入り上の制約もあり、天皇および皇族がの是非について自らの意見を公にする機会は限られている。 寬仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、「あくまで公なものではない私的な見解」と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。 この機関紙は市販されていない。 この中で、女系天皇に明確に反対し、の皇籍復帰などを求めた。 寬仁親王は、「(2000年以上の)歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代のの皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張した。 寬仁親王は男系継承を維持するための方法として• (昭和20年)に皇籍離脱したの皇籍復帰。 女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その人物に皇位継承権を与える。 廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。 昔のように「」()の制度を復活させる。 自分(寛仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々実現性が乏しいと思うとも述べた。 を挙げた。 その上で、「陛下(現・上皇)や皇太子様(現・天皇)は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。 国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年(、通称:皇紀)の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇はいらない』という議論にまで発展するでしょう」と結び、女系天皇容認の動きに反対する意見を述べた。 また、2006年(平成18年)付の、雑誌『』2006年(平成18年)2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。 殊に後者では、やが「女系天皇容認の方針なのは、天皇陛下(当時:)の内意を受けてのことではないのか」という噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い陛下が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。 噂は、事実無根の臆測だろう」と天皇の真意を忖度した。 見解に対する反響 [ ]• 寬仁親王が見解を発表する以前、の私的諮問機関「」座長の東京大学名誉教授は、皇位継承資格者議論について「皇族から意見を聞くことは憲法違反だ」と指摘していた。 また、「憲法の解釈権は有識者会議にある」とも唱えた。 一方で(平成17年)、寬仁親王の見解についての記者質問に対し、首相(当時)は、「皇位継承資格者議論について、皇族から意見を聞くのは憲法違反にあたらず、意見を表明するのは自由である」と答えた。 同年、有識者会議の会合を終えた吉川弘之は、「寬仁親王の見解は会議へ影響せず、女系天皇容認の姿勢は変更しない」とした。 同日、小泉首相も、女系天皇を容認する有識者会議の方針を支持する考えを示した。 同年、は定例記者会見で、寬仁親王の見解に対し、「同様な考えを持っており共感した」と発言した。 さらに皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。 余りにも拙速。 有識者会議には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と主張した。 は社説のなかで否定的見解を示しており、2006年(平成18年)付けので『寛仁さま 発言はもう控えられては』と題し、「政治的発言であり、象徴天皇制というで定められている大原則から逸脱している」と主張した。 は、翌3日の社説で『朝日社説 「言論封じ」こそ控えては』、またやはそれぞれ『寛仁親王殿下に「黙れ」と命じた朝日新聞論説委員の実名と見識』『寛仁親王殿下に「黙れ」と命じた朝日新聞ってそんなにエラい? 』などと主張し、朝日新聞を批判した。 子女 [ ]• 第1女子 - (あきこ、〈昭和56年〉 - )• 第2女子 - (ようこ、〈昭和58年〉 - ) との間には二女がいるが、男子はいない。 上述の通り、当主寛仁親王の薨去を根拠に寛仁親王家は廃止され、寛仁親王妃信子並びに彬子女王、瑶子女王はの一員となっている。 系譜 [ ] (25年)頃、左から寬仁親王、母:、弟:、姉: 寬仁親王 父: () 祖父: 祖母: 母: 祖父: 祖母: 高木邦子 著作 [ ] 単著 [ ]• 『トモさんのえげれす留学』、(昭和46年)• 『皇族のひとりごと』、(昭和52年)• 『今ベールを脱ぐ ジェントルマンの極意』、2010年(平成22年)、友人3名との紳士服談義。 共著 [ ]• 山田富也・と、聞き手斎藤武『いのちの時間』、(平成7年)。 『いのちの時間』新潮文庫、(平成10年)。 『癌を語る』、(平成11年)。 寛仁親王、聞き手『皇族の「公」と「私」 思い出の人、思い出の時』、(平成21年) 参照文献 [ ]• 『読売新聞』2012年6月7日中部朝刊 脚注 [ ] []• 「寛仁さま 東海からも悼む声=中部」『読売新聞』2012年6月7日中部朝刊31頁参照。 「在りし日の御日常 不幸な人々に慈しみ 御霊まいりに明け暮れ」『朝日新聞』昭和26年 1951 5月18日1面• - 2012年(平成24年)6月6日• - 2012年(平成24年)6月6日• - 47news 2012年(平成24年)6月6日• - 2012年(平成24年)6月6日• - 時事通信 (平成22年)閲覧• - 2012年(平成24年)• - 日テレニュース24 2012年(平成24年)• - 日テレニュース24 2012年(平成24年)• - 読売新聞 2012年(平成24年)6月6日• - 毎日新聞 2012年(平成24年)6月6日• - 日テレニュース24 2012年(平成24年)6月6日• 「SIAニュース」115号• 時事ドットコム 時事通信社. 2013年6月10日. 2013年6月10日閲覧。 朝日新聞デジタル 朝日新聞社. 2013年6月10日. 2013年6月10日閲覧。 ワイドショー通信簿. 2012年6月7日. 2012年6月8日閲覧。 - (平成19年)• 東奥日報【号外】 2012年(平成24年)6月6日• 読売新聞 (昭和56年)他• (平成19年)号• - オフィシャルサイト (平成15年) 関連項目 [ ] ウィキソースに の原文があります。 ウィキソースに の原文があります。 外部リンク [ ]•

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釘宮理恵が逮捕されそうってホント?「 顔見て」がヒントだった!

皇族 逮捕

「竹田研究会」公式サイトより といえば"明治天皇の玄孫"を自称しながら、皇室を貶めているとしか思えない数々のネトウヨ発言を振りまいて、世間から「皇族芸人」と揶揄されるお騒がせ男だが、なんと、その竹田氏の側近中の側近ともいわれる人物が、先月、詐欺容疑で逮捕された。 逮捕されたのは、太陽光発電システム製造販売「日本電機サービス」(現・日本スマートハウジング)の実質的経営者、前山亜杜武容疑者(52)ら3名。 毎日新聞によれば、前山容疑者らは同社の業績が悪化して従業員に教育訓練をしたように装い、「中小企業緊急雇用安定助成金」約4700万円をだまし取った疑い。 また、東京国税局が法人税法違反の疑いでも調査しているという。 そして、この前山容疑者は竹田氏とともに「竹田研究会」なる組織を運営している人物だった。 竹田研究会は、〈日本を研究し、日本の文化芸術を振興し、かつ、青少年の健全な育成をすることで、日本人が輝きを取り戻し〉などという触れ込みで、全国に支部をおき、各地で竹田氏の講演会を開催している団体で、事実上、竹田氏の資金集め組織のような役割を担っている。 竹田研究会を運営しているのは「竹田研究財団」なる一般財団法人なのだが、竹田恒泰氏はこの竹田研究財団の代表を、前山容疑者が常任理事をつとめていた。 この事実は、氏の「ゴー宣ネット道場」、小説家の泉美木蘭氏が最初に指摘したのだが、同氏のブログによれば、「竹田研究会」の東京事務局は、もともと前山容疑者が経営する株式会社「AT&BROTHERS」のなかにあり、〈東京竹田研究会の催すセミナーへの応募・問い合わせ先、会費の徴収先は、AT&BROTHERS内の東京竹田研究会事務局になっていた〉という。 さらに、前山容疑者は「NPO法人あきらめない」なる団体を理事長として運営しているが、竹田氏はその名誉会長を務める理事長でもあり、同法人は文科副大臣の衆院議員が特別顧問を務めていた。 ようするに、前山容疑者は竹田氏にとってタニマチであり、資金稼ぎをするためのパートナーだったというわけだ。 そんな人物が公的助成金を騙し取っていたのだ。 しかも、泉美氏によると、前山容疑者は以前、「デート商法」で高額商品をローン契約させる悪徳商法を立ち上げていたこともあるという。 前山容疑者らが逮捕された助成金詐欺の案件に竹田氏が関与していたかどうかは不明だが、いずれにせよ、竹田氏はこの"パートナー"の容疑について、社会的に説明せねばならないだろう。 それにしても、なぜ竹田恒泰という人には、こうした胡散臭い影がついて回るのか。 というのも、竹田氏の周辺に不法行為の疑惑が持ち上がったのは、なにも今回が初めてではないからだ。 そのひとつが、02年に「FLASH」(光文社)7月30日号が報じた"マルチ商法"への関与。 記事によれば、竹田氏はインターネットマルチ商法・スカイビズ2000に関わっていたという。 竹田氏は"旧皇族"を出すことで信用を得て、新規会員を次々と勧誘し、そのためのミーティングを東京のみならず全国各地で行なっていた事実も報道されていた。 ちなみに、スカイビズ2000を展開していたスカイビズ社は、01年に米国連邦取引委員会からねずみ講にあたるとして提訴され実質破綻している。 さらに08年には「週刊新潮」(新潮社)6月19日号でJOC会長として知られる父親・恒和氏、恒泰氏ともども「詐欺師親子!」と告発された。 これによれば、告発者は恒和氏の妻(現在は離婚)とその母・松見イク氏から懇願され、「竹田家の大切な品々」を保管する貸し倉庫の保管料325万円等を立て替えていた。 その協議には恒泰氏も同席していたという。 ところが、書面に恒泰氏のサインがあるにもかかわらず、請求しても一切お金を返済しない。 しかも、倉庫の中身も竹田家側は3000万相当と言っていたのに、鑑定に出したところたったの100万円程度の価値だったという。 また、恒泰の祖母・松見イク氏が経営していた精神病院・松見病院の多額借金をめぐったトラブルも「週刊文春」(文藝春秋)14年10月16日号に報じられたことがある。 松見病院の経営陣のひとりでもあった竹田氏は、この件をめぐる借金の保証人となっており、東京地裁で1200万円および13年6月24日から年5分の利息の支払い命令を受けている。 加えれば、数年前には"霊感商法"まがいの怪しいグッズ販売を指摘されたこともある。 恒泰は「竹田恒泰商店」という自身のサイトで、三種の神器の画像を転写したTシャツなどを販売していた。 そこには「この服を着る者は、母なる天照大御神の、優しく暖かい光に包まれることでしょう」なる文言が。 "皇族"ブランドを使ったアコギな商売の匂いがプンプンしてくるが、しかも値段も約15000円と高価。 宮内庁関係者からも批判されたという。 こうして竹田氏およびその周辺のスキャンダルを振り返ってみると、今回の"腹心"逮捕も、偶然とは思えない。 ようするに、「旧皇族」という偽ブランド(竹田は明治天皇の玄孫ではあるが、旧皇族ではない)を喧伝してメディアに出まくる竹田には、ニセ宮家を金儲けに使いたい詐欺集団が常にそばにいたということだろう。 そういう意味では、小林よしのり氏が指摘していたように、竹田氏の存在そのものが「詐欺」だったといってもいい。 そして、竹田氏を「ネトウヨのアイドル」扱いしてテレビに登場させ、そのトンデモ本を出版してきた出版社ももちろん同罪である。 もしこれから先、今回、逮捕された前山容疑者から竹田氏への資金の流れが判明したら、彼らはどう責任をとるつもりなのか。 (編集部).

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(2ページ目)竹田恒泰の資金稼ぎのパートナーが助成金を騙し取り逮捕! 旧皇族詐称ネトウヨアイドルと詐欺商法の親和性|LITERA/リテラ

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「(去年の)12月30日に会ったのが最後です。 社会人になっても、年に3回くらいは会っていました。 彼が出演する舞台も見に行ったことがあります。 運動神経がよく、頭もよく、好青年で女性にも人気がありました」 「俺の魅力をわからせたいと思った」 そう証言するのは小学校からの幼なじみであるAさん。 友達が逮捕されたという一報を、共通の友人から送られてきたLINEのニュースで知ったという。 警視庁武蔵野署は、70代の女性にわいせつな行為をしようとしたとして、俳優の山内大輔容疑者を逮捕した。 事件は、今年1月26日深夜に起きた。 「俺の魅力をわからせたいと思った」、それが犯行動機だという。 「断られてイラッとしたというか、何で自分が拒まれるんだと、天狗な部分があったのだと思います」 と、もうひとりの幼なじみであるBさんは推測する。 馬乗りになる男に女性は、腰の骨を折るなど全治6週間の大ケガを負った。 現金およそ6万円入りのバッグを奪った山内容疑者はそのまま逃走し、何食わぬ顔で芸能活動を継続。 逮捕前も、6月24日から上演が始まる舞台のけいこ中だった。

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