過ぎ たる は 及ば ざる が ごと し。 【過ぎたるは猶及ばざるが如し】の意味と使い方の例文(類義語・語源由来・英語訳)

【過ぎたるは猶及ばざるが如し】の意味と使い方の例文(類義語・語源由来・英語訳)

過ぎ たる は 及ば ざる が ごと し

真理をついた格言 少年老い易く学成り難し -------------------- 大変申し訳ありません質問者さま、入りきらなかったので補足用IDを使わせていただきます。 追記2 ええ、私も別にムチで打つという意味でいっているのではありません、あなたの例えと同じ文脈で説明しています。 fx9gpiさん、先ほどのリンク先をご覧くださればお分かりいただけると思うのですが、あなたのニートのイメージは偏見で大きく歪んでいます、とりあえず下の私の回答を参考にしてください。 結論から言えばニート問題は若者個人の内面の問題ではなく企業や国が若年層の採用を絞り続けてきたために起きた労働問題です。 >ぬるま湯の地に安住させることが良いはずはなく、その結果が日本の若者の劣化だと思います。 訂正してください、あなたの印象だけで決め付けてもいい問題ではありません。 先ほどのブログ記事には以下のような記述もあります。 「このような言説を振りかざすことによって、現実の青少年が不利益を被る、 中略 ということに関して、何らかの想像力は働いているのでしょうか。 」 一くくりに若者が劣化している、と語ることで現実の青少年が被る不利益にはどのようなものがあると思いますか? これは心理学の問題とも絡むのですが、人間には「確証バイアス」と呼ばれる思考傾向があり、自身の仮説 ここでの若者が劣化しているという考え に肯定的な情報ばかりが強く認知され、その仮説に否定的な情報、もしくはどうとでも解釈できそうな情報には注意が払われにくいという傾向があります。 つまりその様な風潮が蔓延することで主観的印象としてそれを支持する情報ばかりが目に付くことになるのです。 よろしいでしょうか? これが就職活動において彼らを苦しめる元になります。 大変驚いたのですが、民間や公務員試験では最近採用において「面接重視の傾向に拍車がかかってい」るそうです。 大賀英徳著『現職人事が書いた 面接試験・官庁訪問の本』 82頁 なぜ驚いたかと言えばこの面接試験、実は大変不正確なもので、筆記試験以上に大きな欠陥があるのです。 認知心理学者の市川伸一さんはこう仰っています。 「面接は、短い時間でそんなに細かいことが見られるわけではないし、面接官が思っているほど予測力が高いものではないわけです。 (中略)社会心理学の内容にもからむ話ですが、ほとんどの人は、「自分には人を見る目がある」と思い込んでいるのですね。 ある程度知的な人は、ますますそうでしょう。 「ちょっと見れば、どんな人であるか、どんな人になるか、高い確度で推測できる」と。 」 どういうことかおわかりでしょうか?大して予測力も高くない、正直ただの印象だけで決まってしまっている面接試験において、面接官がはじめから受験者に対して劣っているというステレオタイプ的な信念を持っていることがどれだけ怖ろしいことかわかりますか?簡単に言えば気に入らない言動ばかりが目に付くことになるのですよ、そしてその認知は回を重ねるごとに強化されていきます。 更に、面接試験の弊害はもう一つあります。 落とされるたびに全人格を否定されたような気分になることです、まして、この不況ですからそれが何十回と続きます。 落とされ続けて落ち込んでいるときにふと思うでしょう、もし就職できなかったらどうなるか? 我が国は既卒者や履歴書に空白のある人、職歴の無い人には門戸を開かない企業が多いです。 つまり現状より更に酷くなるということだけははっきりしているわけです。 それで心身ともに疲れ果て求職行動にうつれなくなってしまう人も少なからずいるでしょう、高学歴のニートが発生する理由はこれで説明がつくと思います。 どちらかと言えば内向的でプライドの高い人、まして私が上で述べたような一連の心理学の知識をお持ちの方ならなおさらでしょう。 プライドが高いが故に、自身の零落を認めず、はじめから就職など興味が無かったと嘯く人もいるかもしれませんね、これを「すっぱいぶどうの合理化」等といったりします。 以上よろしいでしょうか? 挫折は本当に個々人の内面の問題なのでしょうか? >現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 これは今の中高年であれば現行の理不尽な採用試験においても挫折することは無いと証明できないかぎり、この言説はエビデンスに則った発言とはいえませんね。 もう一度言います、訂正してください。 そしてこのような言動が、若年層を更に精神的に追い詰めるものだということをぜひ知ってください。 真理をついた格言ですか。 『終わりよければ全てよし』 ------------ 下の方が恐ろしいことを仰っているので回答に参加させてください。 fx9gpiさん、具体的なエビデンスも提示せずに「現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 」などと仰るのは止めていただきたい。 後藤さんの発言をお借りすれば、「少年による凶悪犯罪に関しまして、それが減少していることをご存知でしょうか。 」「若年層に関する経済格差や不平等に関する文献、資料に当たったのでしょうか。 」 どう思われます、低賃金かつ不安定、過酷まして将来性も無い、そのような仕事に耐えられずに、それを辞めてしまうことは本当に個々人の内面の問題なのでしょうか? 城繁幸著『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 』をぜひご一読ください。 更に付け加えると「ムチを打つことをやめれば子供がダメになる」は実証的には既に否定されています。 あなたはボードウィン大学のシャフナーの研究をご存知ですか? 人間は教育において叱ることは大変効果的だ、という信念を持っていることが多いとされています つまりアメよりムチの方が効果的だと思い込んでいることが多いです。 しかし、それらの信念は実際には誤っています。 つまり実際は逆で、教育においては叱ることよりも褒めることの方が良いと教育心理学の実験で明らかになっています。 ですが、なぜそのような誤った信念を多くの人間が持つようになるのかは長い間説明することが出来ませんでした。 それを実証的に示したのがシャフナーです。 では、ここでもう一つお聞きしますが、あなたは「平均への回帰」もしくは「回帰効果」という言葉をご存知ですか? ある測定値が、極端な値をとった場合は、次は平均値のほうへ戻る傾向があるということを意味します。 プロ野球等の「二年目のジンクス」はこれで説明が可能です、何となくお分かりいただけますか? ものすごく極端なことは二度も立て続けに起こる可能性は低いですよね? 本題に入りますが 子供を叱るのはどのような時でしょうか、子供が悪いことをしたときですよね。 褒めるのはその逆ですね、子供が良いことをしたときです。 普通の子供であれば良いことも悪いこともするでしょうから、回帰効果でいえば褒めるような状況の後は、叱らざるを得ない状況に出くわすことが多いのです。 つまり多くの親は「褒めた途端に悪くなった、叱った途端に良くなった」という具体的な体験を持つようになり、そこから上で述べたような誤った信念が構築されるようになってしまうと考えられます。 よろしいでしょうか? もう一度いいますが「ムチを打つことをやめれば子供がダメになる」という考えは教育心理学的には否定されています。 具体的な資料も提示せずに「現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 」などと仰るのは止めてください。 この言い回しが気になりますね、あなたには個人に非があるか否かを問わず社会的な要因も考える、という視点が欠けているように思います。 >戦後の食糧難の時代、挫折した若者がいたでしょうか。 戦前の大不況の時代、自立できない若者が何十万人もいたでしょうか。 いなかったと仰りたいのでしょうか?そうなのであればそのソースを示すのはあなたです、立証責任を私に押し付けないで下さい。 まあ良いでしょう、以下のような言説があることをご存知でしたか? 「「ニート」と呼ばれる若者は、世間でイメージされているほど増えていないのです。 (中略)「ニート」のような若者は、ずっと前から日本社会の中に連綿と一定の人口規模で存在していました。 いつの時代でも、若者のすべてが働いていたわけではなく、仕事をしていない状態の若者が社会の中で生きていたのです。 」『「ニート」って言うな!』 第1部 本田由紀 23頁 これを読んでどう思われますか? 上の後藤さんのブログ記事にはこうあります 「景気回復・デフレ脱却こそが「ニート」問題の根本的な解決につながる、という経済学者の論説(注11)があることはご存知でしょうか。 」 と、いかがですか? 因みに劣化しているはずの若者による戦後の犯罪発生件数は年々減少しています。 親孝行も過ぎたるは及ばざるがごとしです。 親孝行し過ぎて親をうとましく思うようになってしまったら意味がありません。 それは揚げ足取りではないかと思うかもしれませんが、例えば、努力だって過ぎると害になります。 どんなに良いものでもし過ぎた方が良いということはないと言っているのですから、親孝行は例外だと言う方が揚げ足取りでしょう。 例外を考えるならば、「学ぶ」とかどうでしょうか。 これだって学び過ぎれば害があるとか言われそうですけどね。 要するに、「過ぎる(良くない場合)と及ばない(良くない場合)とは同じようなものだ」と言っているのですから、例外があると考える必要はないと思いますよ。 「カラスは黒い」に例外がないのと同じようなものです。 白いカラスだっていると反論することはできますが、定義の場合には例外が存在しなくてもいいのです。 例外が見つからなくても不思議に思う必要はないと思いますよ。 「かわいい子には旅をさせよ」ですね。 現代では一般的に親は子に苦労をさせないように考えますね。 でもこのことわざでは逆で、子供には苦労をさせよと言っているんです。 これは正しく、古来からの知恵だったんですね。 現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 挫折しやすい子供たちを大量生産してしまったのが現代です。 親は子供たちに進んで苦労させることが必要だったんです。 成長期に苦労をさせないと精神的にも弱い大人になってしまうんですね。 アメリカにも「ムチを打つことをやめれば子供がダメになる」などという諺があるのですから。 子供のような成長期に苦労をさせなければいけないということを言っているのです。 なぜならば、苦労を体験しそれを乗り越えなければ成長はないからです。 苦労を乗り越えようとする力、乗り越えた後の達成感、そういうものが人間の成長に必要だという当たり前のことです。 ぬるま湯の地に安住させることが良いはずはなく、その結果が日本の若者の劣化だと思います。 ニートだけでも80万人という数字が何よりその証拠でしょう。 ーーーーーー ニートの存在まで社会のせいにするのでしょうか。 戦後の食糧難の時代、挫折した若者がいたでしょうか。 戦前の大不況の時代、自立できない若者が何十万人もいたでしょうか。 それより余程マシな現代という時代に自立できないというのは、個人が人間として成長しておらず、劣化しているとしか考えようがないでしょう。 ニート80万人を社会の責任にしてはいけません。 ニートの本質は自立できないという、社会的能力の欠如にあるのですから。

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「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の使い方や意味、例文や類義語を徹底解説!

過ぎ たる は 及ば ざる が ごと し

「やり過ぎる」も、「度が過ぎる」とほぼ同じ意味で使われます。 つまりは、 なんらかの対象についてやることの度が過ぎるという意味です。 「やり過ぎる」は、 「~をやる」と言い換えることができるものを対象としますので、「度を過ぎる」に比べると、使い道の幅は狭くなります。 たとえば、「冗談の度が過ぎる」とは言えますが、「冗談をやり過ぎる」とは言えません。 「冗談」について、「やり過ぎる」で表現するならば、「君は担任に冗談ばかり言っているね。 ちょっとやり過ぎじゃないの?」などと、 前に置かれた文脈を受けて用いるような工夫が必要です。 【文例】• あなたは、いつも練習をやり過ぎるから怪我も多いのだと思うわ。 ずる休みをした生徒を2時間叱責したって?それはやり過ぎだよ。 「過ぎたるは(なお)及ばざるがごとし」(すぎたるは[なお]およばざるがごとし)という ことわざがあります。 「 及ばない」というのは、 「足りない。 届かない。 レベルが低い」などの ネガティブな意味の言葉です。 「過ぎる」には、「多い。 十分にある」というポジティブな面を含む場合もあります。 しかし、「度が過ぎる」で用いられるように、 「通常のレベルを超え過ぎる」という ネガティブなニュアンスのほうが強い言葉と言えます。 その意味から、「過ぎたるは及ばざるがごとし」は、 「どんなことであれ、やり過ぎること、多すぎることは、不足することと同じようによくない」という意味で用いられます。 【文例】ピアノの練習をし過ぎて、指を痛めたそうだね。 過ぎたるは及ばざるがごとしだよ。

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「過ぎたるは及ばざるが如し」の意味とは?例文や類義語も紹介

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子貢:師と商とでは、どちらが優れていますか? 子:師は行き過ぎであり、商は不足している。 子貢:じゃあ師の方が優れているんですね。 子: 行き過ぎているのは、不足しているのと同じだ。 本来であれば師の方が優れていると感じるところですが、子は「(ちゅうよう)が大切である」ということを伝えたかったために、この発言をしました。 【漢文】「過猶不及(かゆうふきゅう)」の書き下し文 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の漢文表記である「過猶不及」は、以下のように記されています。 上記の画像を書き下し文にすると「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」となるわけですが、ここではその手順を解説していきます。 まずは「猶」が再読文字であることに注意しましょう。 再読文字はその名の通り、2回読む文字です。 以下のようなルールがあります。 過ぎたるは 猶及ばざるが如し:行き過ぎているのは、不足しているのと ちょうど同じの ようだ• 過ぎたるは及ばざるが如し:行き過ぎているのは、不足しているのと同じようだ 「ちょうど・・・のようだ」というが含まれることに注意しましょう。 しかし、見て分かる通り意味はほとんど同じです。 そのため、「猶」が抜けた表現でも相手に伝わりますが、正しいのは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であることを覚えておきましょう。 3.「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の使い方・例文 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は、 「やりすぎは、やらないのと同じくらい良くない」ということを表す時に使います。 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」のビジネスシーンでの例文を紹介します。 仕事をするのは良いことだが、 過ぎたるは猶及ばざるが如しという。 過労で病むくらいならばやめるべきだろう。 ミーティングに時間をかけすぎて、作業する時間がなくなった。 過ぎたるは猶及ばざるが如しというから、次回からは気をつけよう。 部下のためを思って少し強めに指導していたが、どうやらプレッシャーを与えていたようだ。 過ぎたるは猶及ばざるが如しというから、適度に指導するよう心がけよう。 彼は仕事をすごくにするが、かなり時間が掛かる。 そんな彼に「 過ぎたるは猶及ばざるが如しというから、バランス良く仕事をするのも大切だよ」とをする。 勉強のしすぎで入院することになった。 過ぎたるは猶及ばざるが如しというから、適度な休憩を挟むようにしよう。 The battery has broken of overcharging. The last drop makes the cup run over. (過剰な充電がバッテリーを壊した。 度を越してはいけないね。 この英文を直訳すると、「最後の藁(わら)一本がラクダの背中を壊してしまう」という意味になります。 英語では 「限度を越せば取り返しのつかないことになる」という意味で使われています。 」の例文を紹介していきます。 He broke his body with overwork. (彼は過労で体を壊した。 限度を越せば取り返しがつかなくなるね。 ) まとめ 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は、 「度が過ぎることは、足りないことと同じくらい良くない」という意味です。 分かりやすく言えば、 「何事もやりすぎるのは良くない。 程度が大切だ」ということですね。 現在は「猶」が抜けた「過ぎたるは及ばざるが如し」を良く耳にしますが、これは誤用です。 「猶」には「ちょうど〜のようだ」という意味があるので、抜かしてしまうと意味が少し変わってしまうので注意しましょう•

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